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【藤井聡】公共事業逆風世論の真実

公共事業逆風世論の真実


藤井 聡


公共事業に対する国民不信

 近年の公共事業をめぐる議論において,「世論」の問題が頻繁に取り沙汰されるようになった.しかし,「世論」とは一体何なのだろうか.日常用語の中でしばしば利用する言葉であるが,深く考えてみればみるほど,その輪郭は曖昧なままである.ただし,この「世論」の問題を考えるにあたって,そのきっかけとなるであろう言葉を一つ挙げることができる.

「このご時世だから」
という言葉である.この言葉は,公共事業を論ずる論客達から,しばしば耳にする言葉である.曰く,「このご時世だから,住民の声をきちんと取り入れなければならない」「このご時世だから,きちんと財務分析をしなければならない」云々.ここに言う「ご時世」という言葉は,多くの場合「国民世論が公共事業に不信感を抱いているご時世」という意味のようである.

 ここで,「このご時世だから」という言葉の意味を考えてみよう.繰り返すまでもなく,公共事業とは公共の利益に資するための事業である.それ故,その判断は公共の利益に資するか否かのみを基準にしなければならない.これを基本前提とした場合,「このご時世だから」という言葉は,この基本前提を冒涜する言葉と言わざるを得ない.なぜなら,この言葉は,「このご時世」という何か得体の知れぬ多数の集団の意見や風潮を論拠に,自説を正当化しようとする態度に他ならないからである.「このご時世だから」という言葉は,公共の利益の増進云々という正論をおざなりに,我が意見の裏には膨大な数の同調者が存在しているということを暗示しつつ同調を求める「脅し文句」に他ならない.

 公共事業の有り様を論ずる者は,こうした脅し文句に屈してはならない.そして何より,こうした脅し文句を口にすることを恥と見なし,そうした発言を厳に慎まねばならない.しかし残念ながら,誰しもが,こうした脅し文句,ならびに脅し文句を自ら口にする誘惑に屈しそうになる心的な傾向性を秘めていることもまた,認めざるを得ない事実のようである.

 例えば政治心理学には,ノエル・ノイマンが提唱した「沈黙の螺旋理論」なる理論がある1).この理論は,近代の世論研究の中でも最も大きな影響力を持つ理論の一つとして広く知られているものであるが,この理論の要は,人間を「理性的な判断を下す合理的な存在」というよりはむしろ「孤立をおそれるひ弱な存在」と見なす点にある.

 人間は孤立をおそれるが故に,我は少数派なりと考えれば発言をためらう.しかし,我は多数派なりと考えれば自説を口にしやすくなる.そうすると,耳に聞こえてくるのは,我は多数派なりと考える人々の意見ばかりとなる.こうなるとますます少数派は自分の意見を言いづらくなる一方,多数派はより雄弁に自説を語りやすくなる.つまり,人々は孤立をおそれるあまり他人の顔色を伺いながら発言と沈黙を繰り返し,その結果として特定の意見しか言えない風潮が充満する.世論と呼ばれるものは,人々の冷静な意見の集積というよりはむしろ,こうした「こわばった風潮」にしかすぎない,と考えるのが沈黙の螺旋理論である.

 この理論が意味するところを直感的に理解するには,「裸の王様」の寓話を思い起こすことが得策である.裸の王様の寓話では,誰もが王様が裸であることを理解している.しかし他の人が黙っているから,というだけの理由で,人々は王様が裸とは言えず沈黙してしまう.そして沈黙はさらなる沈黙を呼び,挙げ句に万人が王様が裸であることを知りながらも,王様が裸であるとは言えない空気が蔓延する.そして,一旦こうした世論が形成されば,一部の欺瞞に満ちたお調子者が「王様は素晴らしい衣装をまとっていらっしゃる!」と言い出す始末となる.先に,議論の途上で「このご時世だから」ということを論拠に,特定の意見を表明する人々が少なからずいることを指摘したが,その精神は王様に媚びを得るこのお調子者のそれと何ら変わりはない.


沈黙する庶民

 かくして我々は,「公共事業の反対世論」とは「人々の反対意見の集積」を意味しているのではない,と言わねばならない.公共事業の反対世論の正体とは,「他の人は反対しているに違いないという誤った認識(誤認)の集積」に他ならないのである.

 様々な公共事業において,構造改革と軌を一にした改革を進めようとする機運が支配的であるとするなら,公共事業を為す者は今一度,冷静に世論とは何かについて思いを馳せねばならない.改革を支持するのは,我こそが多数派なりという幻想に基づいて声高に自説を語る大衆人だけなのである.「このご時世ですから」という脅し文句を吐きつつ改革に荷担する専門家や政治家は,そうした大衆人に踊らされているお調子者に過ぎない.

 ただし,そこに“沈黙の螺旋”が存在する以上は,それがいかに加速化されようとも,沈黙を余儀なくされた一定数の庶民が未だに数多く潜んでいることを忘れてはならない.すなわち,我々の社会には,虎の威を借りるようにしながら「饒舌」に公共事業に異を唱える人々がいる一方で,公共事業の重要性を理解しつつも無言を貫く「沈黙」の人々がいるのである.


公衆と大衆,公民と人民

 ここで,市民(citizen)という言葉は公民(civic)という言葉に言い換えることができることを思い出してみよう.あるいは,大衆(masses)という言葉は,公衆(public)という言葉でも言い換えられることができることを思い出してみよう.

 これらの言葉について言うなら,普段の日常用語を思い起こせば,現代においては,公民よりも市民という言葉の方が,そして,公衆という言葉よりも大衆という言葉の方が頻繁に使われているように思われる.しかし,市民とは,「マーケット」(市場)あるいは「人々が集まる所」であるところの「市」の民という程度の意味しかなく,大衆とは「たくさんの人々」という程度の意味しかない.つまり,市民にしろ大衆にしろ,その資質を問われ
る存在ではないのである.市場やたくさんの人々が集まるところにいさえすれば,ただそれだけで「市民」たり得るのであり「大衆」たり得るのである.

 その一方で,公民にしても公衆にしても,「公」の民であり人々という意味を持つ.ここに,「公」は「私」の対語であり,私とは,私心や私利私欲という言葉に象徴されるように,自分一人だけが得をすれば良い,という精神と通じた言葉である一方で,「公」とは,公心や公徳心,公共利益というように,社会全体,場合によっては,歴史全体に対して配慮する精神に通じた言葉である.それ故,市民や大衆とは異なり,公民が公民たり得るために
は,そして,公衆が公衆たり得るためには,「公」に配慮する精神を持つか否かという「資質」が問われているのである.

 さて,公衆・公民と大衆・市民との相違を踏まえるなら,公共事業を巡る世論は,公共に配慮する精神を持つ公衆・公民と,その精神を持たぬ大衆・市民との相克によって織りなされているものだと言うことができよう.もしも,公衆や公民が優越する社会であるのなら,普通の人々,すなわち庶民は,公共の問題に配慮する人々なのであり,それ故に,政府が公共利益に資する公共事業を実施している限りにおいては,人々がその公共事業に大きな反対の意を唱えることは無い.無論,中には,その公共事業を承服できないという人々がいるとしても不思議ではない.しかしそうした場合でも,公衆がそもそも公共に配慮する存在である以上,公衆と政府との間の議論は「公とは何か」を見据えた建設的なものとなることが期待できよう.そしてその議論を通じて,公共事業を改善できるような知恵が得られる事も,大いに期待できるだろう.

 ところが,大衆が公衆を優越する社会では,その様相は一変する.彼らは,公共の利益についての関心を持たない.それ故,政府が公共利益に資する公共事業をいくら展開しても,そして,その必要性をいくら論じても理解されることなどない.説明すればするほど,不信の目にさらされる.彼らが関心を示すのは公共の利益ではなく,あくまでも私利である.だからこそ,自らの利益を脅かすかも知れない他人の目を気にし,他者の顔色をうかがい,その社会的集積として,沈黙の螺旋が立ち現れ,そして,公共事業に対する逆風世論が吹き荒れることとなるのである.

 現代の社会情勢は,上記のいずれに該当するのだろうか.確かに,時代を遡れば,高度成長期を迎える遥か以前には,大衆よりもむしろ公衆が優越する状況が我が国にも存在していたのかも知れない.しかし,選挙の度に「ポピュリズム」が席巻する今となっては,我々の社会は,沈黙の螺旋による逆風世論が吹き荒れる公衆ならぬ「大衆」が優越する状態へとまっしぐらに進んで来たと言わざるを得ないだろう.

 繰り返すまでもなく,もしも現代の社会が完全に大衆に支配された社会であるのなら,ひとり一人の「短期的利益」の増進をもたらす公共事業以外はすべからく反対されることとなる.しかし,「万人の短期的利益に資する公共事業など」存在するはずもない.その様な「短期的利益」の増進に寄与する事業ならば,民間企業が営利目的で実施しても十分に成立する.長期的広域的には大きな利益が得られるものの短期的には利益が得られない,というような,民間企業が行おうとは考えないような事業だからこそ,政府が公共事業として実施しているのだ.この点を踏まえれば,政府が実施せねばならない公共事業は,必然的に,本質的に「大衆」からは忌み嫌われる宿命にある,と言わねばならない.皮肉にも,大衆は,自らに甘い蜜を与える民間企業を好む一方で,公共事業が公共事業であるという理由によって忌み嫌い,それを推進する政府・行政を不信の目でながめ,時には憎悪の念すら差し向けるのである.

 こうした議論は,何も筆者だけが独善的に展開しているものでは決して無い点に留意されたい.かつてソクラテスやプラトンが,五つの典型的な政治形態を列挙し,それらの中でも最悪のものが大衆民主主義であると断じている.そして,20 世紀初頭に「大衆の反逆」を著したオルテガは,近代の国民国家がプラトンやソクラテスが最悪の政治形態と断じた大衆民主主義国家へと堕落しつつあることを,当時の社会風潮を克明に報告しつつ詳述している.同様のことは,ニーチェやキルケゴール,トックヴィルやバークといった近代の社会科学・哲学者達によって共通に主張されている.もしもこうした状況認識が正しいとすれば,公共事業を行うものにとって,現代はほぼ「絶望的」な状況であると言うことができるだろう.公共事業が,公共利益に資する事業であるというその本質的な理由によって,大衆から拒絶されてしまうという状況を絶望的と言わずして,何を絶望的と言えるのだろう─.


公衆性の活性化

 しかしながら,この絶望的な状況ですら,我々の眼前には一条の希望の光があることを,忘れてはならない.繰り返すまでもなく,沈黙の螺旋理論が暗示するように,饒舌に発言を繰り返す大衆の陰で,沈黙を守る庶民が数多く存在しているのである.沈黙を守る彼らは,公共利益に配慮する精神を持つ公民であり,公衆である可能性が残されているのだ.もしも,政府が真に「公共利益」の増進を目指した行政を執り行っているのであるのなら,政府の言葉は必ずや,沈黙を守る,彼らの心に届くに違いない.

 しかも,大衆と公衆との区別は,決して明確なものではないということを忘れてはならない.例えば「魔が差す」という言葉は,いかに良識的な人であっても,非道徳的な動機を心に持つことを意味している.それとは逆に,如何に大衆化されているように見える人物であっても,その精神のどこかに,「公衆性」を宿している可能性は決して皆無ではない.そうである以上,人々の精神に宿る「大衆性」を憎みつつも,その人々そのものを決して憎むのではなく,人間としてひとり一人の精神に宿る「公衆性」を信じ,真摯な言葉を投げかけ続けることは決して無駄な努力ではない.ここでもしも,公共事業を為す者が完全なる絶望にその身を絡み取られてしまうとするなら,それこそ,大衆は永遠に大衆のままであり,政府が公共利益に資するであろうと考える公共事業が彼らに理解される日が訪れることなど永遠に訪れないだろう.そうした完全なる絶望を回避するためにも,どれだけ絶望的に見える状況であっても,公共利益に資する仕事を行う以上は,人々の心の中に潜むかも知れぬ「公衆性」を信じ,彼らに語りかける以外に途はないのである.

 しかも,社会心理学等の様々な社会科学を参照しつつ実施されているコミュニケーションを主体とした行政施策の取り組みによって,公的問題に配慮する「公共心」が,適切なメッセージの発信や説明によって増進し得ることが,近年示されつつある.例えば,駅前の放置駐輪対策は,従来は撤去や駐輪場整備が主体であったが,近年では「説得」を通じて人々の「公共心」の活性化を図り,それによって駐輪問題の解消を図ろうとする取り組みが始められている2).同様に,自動車交通における渋滞や環境問題に対処するために,課金や規制といった方法では無く,「説得的なコミュニケーション」を通じて自動車から公共交通や徒歩などの他手段への「自発的」な転換を促すモビリティ・マネジメントと呼ばれる交通政策が,近年では多様な行政府によって実施され,渋滞解消や公共交通利用促進といった具体的成果を上げつつある3).さらに,公共事業の趣旨を「一言」説明するか否かで,
行政に対する信頼の水準が統計的有意に変化するということも実証的に示されている4).人々は,その精神に公共心,公衆性を宿しているのであり,それは,行政からのメッセージや対話を通じて活性化し得るのである.


絶望と希望の弁証法

 本稿では,政治心理学や政治哲学の知見を援用しつつ,公共事業を巡る大衆世論について論じた.その論考が暗示する第一の重要な結論は,それは,我々は常に「大衆世論」を疑わねばならない,という点である.世論とは,ひとり一人の合理的な判断の集積というよりはむしろ,孤立をおそれる「大衆」が他者の顔色をうかがいながら表明する意見の集積にしか過ぎないものなのであった.そして,その風潮の中で声高に公共事業に異を叫ぶのは,公的な問題に関心を持つ公衆であるというよりはむしろ,私的な利益にしか関心を示さない「大衆人」なのであった.

 しかし,人々は,そうした大衆人としての顔を持つと同時に,公的な問題に配慮を示す,公民や公衆としての顔も合わせ持つ.そうであればこそ,国民ひとり一人に語りかけ,対話し続けることで,国民世論の中に公共利益を真に見据えた声が少しずつ大きなものとなることもまた,期待し得るのである.

 公共事業を考える上で国民世論を踏まえることが重要であるとするのなら,公共事業に携わる者にとっては,以上に述べた全く相反する二つの間の平衡を如何にして保ち続けることができるかが,最大の課題となるであろう.国民に対する「過度な信頼」は,国民の中の大衆性に基づく歪んだ世論の公共事業への反映を促進し,その公共事業の形をゆがめていかざるを得ない.その一方で,国民に対する「過度な不信」の念は,国民の大衆化を促進すると共に,国民の側からの公共事業者に対する不信を助長し,国民と公共事業者との間の断絶をもたらすことに繋がる.だからこそ,行政をはじめとした公共事業者は,国民の大衆性を徹底的に疑い,国民に深く絶望しながらも,国民の公衆性を徹底的に信じ,将来における適切な世論の到来についての希望を携える精神の強さを携えることが不可欠なのである.それがあってはじめて,国民との間の相互信頼が形作られていくこととなるのであり,その時に初めて,我々はこの社会を真に豊かなものへと少しずつ改善していく力を得ることができるのである.


出典:藤井研究室
http://trans.kuciv.kyoto-u.ac.jp/tba/fujii/pdf%20files/koukyoujigyougyakuhuu_2007.pdf


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