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【藤井聡】『震災復興と心理学』

藤井聡教授FBよりシェア

心理学ワールドという日本心理学会の雑誌に寄稿した(日本の心理学者の皆さんに向けて書かせていただいた)原稿です。いろんな学会で、普通の真っ当な日本人が真っ当に仕事していれば、真っ当に生きていける社会を作るためにどうしたらいいか。。。。を、是非考えてもらいたいと思います。

   『震災復興と心理学』



国民意識に依存する震災復興

 東日本大震災を目の当たりにした多くの日本人は、この未曾有の震災に対して一体何が出来るのだろうかと自問したのではないかと思う。ある人はただひたすらにニュースで見続け、ある人は義援金を支払い、ある人はボランティアにでかけ、またある人は震災復興に資する政策提言を行った事だろうと思う。
しかし考えてみて欲しい。
もし、被災地に自分の友人や親戚がもっとたくさんいたとしたら───。中には、そう考えたとしても、自らが今回やった事以上の事は不可能だと答える方々もおられるかも知れないが、多くの方々が、もしもそうであったならより多くの事をやっただろうと答えるだろうと思う。
逆に、この大震災が、見も知らぬ地球の裏側で起こったことだとしたら、どうであろうか。やはり、決して少なくは無い人々が、そうであるならもっと些細な事しかしなかった、あるいは何もしなかっただろうとお答えになるのではないかと思う。
つまり、自分以外の人物が被災した事に対する援助や支援の動機の強さ、ひいてはそれによって駆動される援助行動、はたまた政府の復興政策は皆、結局はその人物に対するコミットメントや情、内集団か否かという事や同胞意識が決定的な影響を及ぼすのである。

著しく不十分な震災復興事業

 はたして日本政府は、被災地に対して2兆円の第一次補正予算と4兆円の第二次補正予算を組んだ。そして、震災後八ヶ月が経過した昨年末になってはじめて十兆円を越える規模の補正予算を組んだ。
多くの日本国民は、この金額が十分なのかどうか、分からないのかも知れない。
しかし、専門家の一人として1断定するが、その金額は常識の範囲を遙かに逸脱する程に少なく、かつ、その予算執行も目眩がするほどに遅いものである。
そもそも、本稿執筆時点において未だガレキの処理は終焉しておらず、失業者は12万人の規模で残されている。また、被災地では、生き延びた人々においても自殺される方が


(1 筆者は震災後の予算委員会や東日本大震災復興特別委員会の公聴会で参考人として招集され、震災復興に関する専門家の意見を公述している。また、震災復興についてこれまでいくつかの書籍(藤井、2011等)や一般誌やテレビ、全国紙等で発言する機会を頂いてきた。)



決して少なくないとの報告も多数漏れ聞こえてきている。
これらの問題は、迅速、かつ、大量の資金投入で大きく緩和されたであろうことは、改めて論ずるまでもない。例えば、震災直後の3月23日の参議院予算委員会の参考人公述において、財政・金融や経済、国土計画を専門とする複数の専門家から主張されたのは、20兆円から30兆円の資金を迅速に調達し、迅速に震災復興にあてるべしという意見であった。

 しかし、実際に政府から用意されたのは、その十分の一にしか過ぎない2兆円という水準だった。
一部専門家からは、これでは被災者を「見殺しにする様な政策判断だ」という強い批判が巻き起こった。しかし、その批判は国民的なものにまで成長することはなかった。そして、専門的な見地から見れば極めて不十分で、かつ、信じがたい程の遅い速度での対応が、政府によって行われていったのだった。そしてその結果、年を越えても未だ、未だ復興の槌音はほとんど聞こえてくることなく、上述の様に12万人の失業者が放置される事態を迎えてしまった。

 そうであるにも関わらず、未だその事に対する国民的な批判の声は大きなうねりとはならず、TPPや増税など、新しいニュースが世論をにぎわせ続けている。
復興政策の不十分さを、心理学は説明できるのか?
筆者はこうした状況を、心理学研究の観点から眺めた時、様々な意味に於いて研究対象とすべき興味深い現象であると感じている。

 なぜ、人々は震災復興に対して大きな興味関心を抱かないのか───。
例えば阪神淡路大震災の時には、今回とは比べものにならない位の迅速さと規模で、様々な復旧、復興事業が展開された。無論、その時の政権と今の政権とが異なるからだ、という説明は最も直接的なものであろう。しかし冒頭で指摘したように、国民意識が震災復興の規模や内実に強大な影響を及ぼすことが自明である以上、阪神淡路大震災時と今回の大震災時における国民意識の大きな相違が、震災復興の規模や速度に甚大な影響を及ぼしていることは間違い無いだろうと感じている。

 では、日本人の国民意識はどの様に変わってしまったのか?
この問題について、現代の心理学はどの程度まで回答を供することができるのだろうか。
ある人々は、「素人的発想では、時代が変わってきて、世知辛い世の中になってきたと言われているが、実は..
(!)そんな事は無く、むしろ今の方が情が深くなっているんですよ」というような、反直感的(counter intuitive)な心理的事実に興味を抱き、「昔より今の方が、人様の事を無視するようになってきたのです」というような常識的な見解は興味をそそるものではないと言うかも知れない。
 しかし、人の興味をそそるか否かは別に、現実は現実として存在している以上、それが例え常識的な範囲のものであろうとも、その現実を明らかにしていくこともまた、心理学の勤めなのではないかと思う。

 筆者はこの問題について、次のような二つの心理学的な位相転換が、今日の震災復興政策の不十分さを導いているのではないかと感じている。
一つは、日本における「ナショナリズムの低下」であり、もう一つは、「新自由主義経済世界観の向上」である。
これらの二つの仮説はいずれも、いわゆる狭義の「心理学研究」の内部から導き出されるものではない。前者は政治思想の観点から、後者は経済思想の観点から演繹されるものである。
ナショナリズムに関する現代心理学研究を「ナショナリズム」とは、一言で言えば「国民意識」である。日本の歴史や風土、文化に対する「愛着の念」も含まれるし、日本という国家に対する「忠誠の念」も含まれるし、日本人としての「同胞意識」も含まれる。いわゆる「組織コミットメント」という概念を用いるなら、それは「国民国家」をその対象とする組織コミットメントに大いに重複するものでもあるだろう(ただし、ナショナリズムは必ずしも方法論的個人主義に準拠する概念ではない点には留意が必要だが)。

 日本では「ナショナリズム」と言えば、戦前の軍国主義を想起させるような、何やら危険な香りを漂わせる様な言葉とも捉えられるような空気が存在しているのかも知れないが、今日、欧州とりわけ英国を中心として、「ナショナリズム」に関する社会科学研究は大いに注目を集め、様々に発展しつつある(c.f. 中野、2008a, b)。
その背景には、東西冷戦が終焉して以降、世界中で様々な独立運動が生じ、それが、世界の歴史を大きく動かす重要な動因となったという世界史的事実がある。そうした状況を受け、社会科学では世界史のダイナミズムを理解する上で、各国のナショナリズムの社会科学的な理解を深めることが必要であるという認識が共有されるに至ったのである。

 ナショナリズムが濃厚に存在する国家は、様々な「力」を動員し、様々な難局に対峙していくことが可能となる。戦争はその最たる例であるが、迅速な震災復興もまたナショナリズムのなせる技だと解釈できる。ナショナリズムが希薄な国家では、震災復興は一向に進まない。事実、スマトラ沖の大津波で壊滅的な被害を受けたいくつかの国々では、国民国家としての強大な政治力を調達することができず、私企業によって好きなように被災地が買いたたかれていくという深刻な問題が生じた。あるいは、今日のEUの危機もまた、「EUとしてのナショナリズム」が不在のままに貨幣だけ無理矢理統一させた事による弊害であるとの解釈も様々に論じられている。
そして、阪神淡路大震災と今回の大震災とで復興政策の質が大いに凋落してしまったのも、日本におけるナショナリズムの低下がその原因である可能性が理論的に十二分に考えられる。ただし社会科学では、こうした議論を以上の様に質的に論ずるところまでは可能であるのだが、いわゆる「経験科学的」に論ずることは出来ない。それ故、ナショナリズムについての社会科学研究の進展に、心理学が寄与出来る余地は大きく残されているのである。こうした視点の社会科学の最新の動向を見据えた心理学研究の展開は未だ限られているところであるが(例えば表1参照)、今後は、そうした研究の発展を期待したい。
───────────────────────────
家族意識 職場意識 地域意識
───────────────────────────
家族意識 -
職場意識 .23** -
地域意識 .37** .49** -
ナショナリズム .22** .47** .47**
───────────────────────────
n =400, ** p <.01
表1 ナショナリズムと家族意識・職場意識・地域意識との相関 (ナショナリズムは共和主義的な諸要因と対立するものではなく、共和することが示唆されている。これはヘーゲルの「人間現象学」で論じられた疎外意識/共同体意識の論理から演繹される仮説を支持するものである)(羽鳥他、2001より)


「新自由主義経済世界観」の影響

 我々の意見や判断には、我々が抱く「世界観」が甚大な影響を及ぼしている。例えば、この世は公正だと考える「公正世界観」を抱く人々は、そうでない人々と、他者の行為の原因帰属をはじめとした様々な推論や予期を大いに異にしていることが知られている。
そして筆者は今、世界の有り様をいわば「新自由主義経済世界観」とでも言う様な形で解釈する人々が、年々増加しつつあるのではないかと感じている。新自由主義経済世界観とは、いわゆる経済学における「シカゴ学派」の考え方である。これは、人々は利己的に効用を最大化する一方、企業は同じく利己的に利潤を最大化する存在である、そして人々は企業から財やサービスを市場で購入するのだが、その交換の効率性を高めるたには様々な規制の緩和が必要であり、それが成功すれば人々はより効率的に財やサービスを手に入れることができる一方、不効率な企業は市場から退出し、ますます人々は幸せになる───という世界観である。

 この世界観が人々の中で共有されていればこそ、例えば、近年では自由主義経済を過激に推進しようとするTPPが一定の批判を受けながらも国民的な支持を得たのであり、古くは、行政改革、構造改革等が熱狂的な国民支持を得たのだと解釈することができよう。
しかし、日本人が古くから抱いてきた世界観はこういうものとは大きくかけ離れたものであったとの解釈は十分に可能であろう。例えば、江戸時代の近江商人は「三方良し」といって、自らが儲かるだけではなく、買い手も、そして、世間もまた皆幸せになるような商いをすべしという格言が教訓とされてきたが、この考え方は、新自由主義経済世界観とは完全に相反するものだ。

 ところが、今日の震災復興は、文字通りこの自由主義経済世界観で実施されようとしている。被災地に「復興特区」を設定し、大企業の様々な投資を呼び込み、それまでの不効率な産業を淘汰し、より効率的な産業を被災地に定位させようとしている。そして、その方針が、一部国会議員の反発もある中で国会で了承されている。さらには、国民はこの方針に対して大きな反発を示してはいない。
そしてそもそも新自由主義経済理論では、政府の介入を徹底的に拒む傾向がある。それ故、自ずと、震災復興のための政府財源は縮小されることとなる。
こうした諸点を鑑みるなら、阪神淡路大震災の頃から今回にかけての復興事業の質的な凋落は、新自由主義経済世界観が広く国民の間で共有されてしまったことに、その本質的原因の一つが求められるのではないかと思う(しかも、その世界観は国境という概念を含むものではないため、新自由主義経済世界観の国民的共有化は、ナショナリズムの低下と協和するものでもある)。
ただし、こうした経済思想に基づく心理学研究もまた、一部の例外(図2参照)を除いて十分に進められているとは言い難いように思う。


図1 「利己主義人間観」の心的諸影響(人間はそもそも利己的であると信ずる「利己主義人間観」を持つ人は、いわゆる経済理論を信じ、構造改革を支持すると共に、官僚に対して不信感を抱き、その結果、支出の小さな政府を支持するに至ることが示されている)(藤井、2010より)


復興政策における心理学の役割

 震災復興は、我々国民の英知を結集すべき大問題である、という点に反発する方は少ないだろう思う。そして心理学は、人間の知的営為における重要な位置を占めるものであることもまた、多くの人々が同意するのではないかと思う。もしもそうであるのなら、あるべき震災復興を果たすためには、心理学は政治思想、経済思想等のあらゆる学問を含めた鳥瞰的な視点を携えながら、心理学として貢献しうる学を重ね、それを全アカデミズム界と、政府を含めた実社会に提示し続ける責務があるとも言えるのではなかろうか。
もちろん、一人の研究者がその全てを行う必要はない。
しかしそれでもなお、一人一人がそうした大事業の一つの「役割」を担うことは、いかなる状況下においても必要であり、かつ、可能なのではないかと、筆者は思うのである。


参考文献
藤井聡:列島強靭化論、文春新書、2011.
中野 剛志:国力論~経済ナショナリズムの系譜~,以文社,2008.
中野剛志:経済はナショナリズムで動く,PHP研究所,2008.
羽鳥剛史、中野剛志、藤井聡:ナショナリズムと市民社会の調和的関係についての実証研究、人間環境学研究、8(2), pp. 163-168, 2010.
藤井聡,梶原大督,菊池輝:利己主義人間観の心的影響,日本社会心理学会第51回大会発表論文集,pp.140-pp.141,2010.

http://trans.kuciv.kyoto-u.ac.jp/tba/images/stories/PDF/Fujii/201201-201203/editorial/fujii_fukkou_modified.pdf

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【藤井聡】中央集権語ること恐るべからず

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「正論」原稿のoriginal版です(新聞社の方で調整いただく間での原稿です。微妙に違いますので、こちらもご紹介いたします)。




中央集権語ること恐るべからず

中央集権を語る事を恐るべからず

京都大学大学院教授 藤井聡



「中央政治をぶっ壊す」という主張

 近い将来に危惧されているさらなる世界大恐慌,そして,日本を直撃するであろう平成関東大震災や西日本大震災の危機を見据えた時,日本に今求められているのは,それらの危機にも耐え忍ぶ事ができる「強靱さ」(レジリエンス)を措いて他にない.

 しかし今,そういう「強靱化」とは真逆の方向の国家の「脆弱化策」とでも言いうる議論が,喧しく論じ立てられている.

 「地方主権」である.

 これは長らく言われ続けてきた「地方分権」の流れを受けて,民主党が先の衆院選で掲げたスローガンの一つである.そしてこの旗印は今では,現大阪市長の橋下氏率いる「大阪維新の会」により過激な形で引き継がれている.

 その「過激さ」は,橋下氏のブレーンを務める上山慶応大学教授の「大阪維新」という書籍からも伺える.

 詳細は本書をご覧頂くしか無いが,氏は「民主主義は市場原理の応用」と解説する.その上で,「日本における政治の課題は今や社会問題の解決,つまり教育・医療・福祉の充実が最大のテーマ」であるのだから,「ますます住民に近い自治体の役割が大きく」なる一方で中央政府は多くの問題を抱えて停滞している,だからこそ「今の日本の課題は,小泉流に言うと『中央政治をぶっ壊す』ことなのです」と断定する.

 この主張に強く同意する人々が我が国に一定おられることを筆者も理解しているが(そもそもこの新書はベストセラーだ),その一方で,そのあまりの「過激さ」故に,俄に信じがたい思いに目を疑った読者もおられるのではないかとも思う.しかし,この本は維新の会の公式ホームページにて,「基本的な思想やこれからの具体的政治指針は、上山信一著『大阪維新』に記されております」と紹介される程の,文字通りの維新の会の政策理念なのである.



「維新」の果てに失われる国民の安寧

 無論,この基本理念に基づく諸政策によって,日本国民に安寧と幸福がもたらされるなら,筆者も含めた全国民が橋下氏を強力に支持しつつ「中央政治をぶっ壊せ」との声を挙げねばならぬであろう.しかし,筆者の学者生命を賭して断定するが,「中央政治をぶっ壊」した時に国民にもたらされるのは安寧や幸福などでは絶対にない.

 そもそも,今の政治の最大の課題は,教育・医療・福祉の充実だけではない.それらが重要な課題であることは論を俟たぬところであるが,それらはいずれも地震も恐慌も国際紛争も何もない「平時」の時の課題だ.しかし人間社会では,平時のみでなく様々な「有事」が勃発するものなのである.リーマンショック然り,東日本大震災然り,尖閣問題然り,そして,これから日本を直撃するであろう平成関東大震災や西日本大震災然り,である.これらの問題は,いずれも一つの自治体や地域で対応できるようなものではない.それらは国家全体に襲いかかる国家規模の問題なのであり,中央政府の力が不可欠なのだ.例えば東日本大震災の時に大きな力を発揮した「自衛隊」も「地方整備局」は中央政府そのものであったし,震災復興のための大規模な予算は,強大な中央政府の力が不在であれば調達不能であった.

 そもそも狭い地域の中で巨大災害は滅多に起こるものではなく,したがってその対応ノウハウは各地域には必ずしも蓄積され得ない.その一方で,日本全土では数年に一度の頻度で巨大災害は起こる.だから結局は中央政府にしかその対応ノウハウは蓄積され得ないのである.だからこそ例えば,「地方整備局を解体する様な道州制」が成立すれば,全国各地の震災対応が「脆弱化」してしまう事は避けられないのである.

 さらに言うなら,そうした有事は「市場原理」で太刀打ち出来る様なものでもない.そもそも,人類の歴史が証明し続けている様に,人間社会には「市場の論理」のみならず「統治の論理」も存在しているのだ.そして,こうした様々な「有事」に対応するためには,市場だけでなく「統治の論理」を持ち出さねば如何ともしがたい.例えば,カネだけで集められた傭兵のみで構成される軍隊が,明確な国家意識を携えた諸国家との有事に勝利し続ける可能性は針の先ほどにも無い.



中央と地方の「敵対」から「協調」へ

 兎に角,「中央政府をぶっ壊し,地方分権すべし」という主張は,「地方自治体をぶっ壊し,中央集権すべし」という主張と同じ程に愚かしいものなのだ.長きに渡って日本国民が安寧の内に暮らし続けることができる様な,強靱で,強くしなやかな地域づくり,国づくりを目指すのなら「ぶっ壊す!」などと叫びながら地方と中央とが「敵対」するのではなく,地方と地方,中央と地方が互いに「協力」せんとする態度の下,一つ一つの具体的な項目について,専門的,俯瞰的,総合的な見地から,さながら(かつてウェーバーが主張した様に)絶望的とも思える程の堅さを持つ岩盤に穴をこじ開けるが如くの真剣さとねばり強さでもって,地方と中央の適正な協調のあり方を探り続けねばならないのである.

http://trans.kuciv.kyoto-u.ac.jp/tba/index.php/fujiilab/fujii/144--centralization-.html




【藤井聡】橋下『地方分権論』の致命的欠陥 ~行きすぎた分権,今求められる集権~

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(橋本氏からのツイッターで「猛烈」なご批判を頂戴している)過日の当方の「正論」記事に関連する別原稿が、残念ながらとあるメディアで「掲載拒否」にあってしまいました.......ので、取り急ぎ、HPに掲載いたしました。よろしければ是非、ご一読ください。



橋下『地方分権論』の致命的欠陥

~行きすぎた分権,今求められる集権~



京都大学大学院教授 藤井聡



高まる現政権への不満

平成24年には,政局の流れによっては総選挙があり得るのではないかと言うことが,政界筋から様々に漏れ聞こえている.

多くの国民が大きく反発し,多くの学者等の知識人が日本の国益を大幅に棄損することが明白であることを繰り返し指摘しているTPPを推進しようとし,同じく様々な論者が日本のデフレをさらに加速すると指摘する増税を不退転の決意でもって進めようとしている一方で,震災復興に対しては大方の国民が不満を抱く程の不十分な対応しか図ろうとせず,沖縄基地問題や尖閣諸島や竹島問題をはじめとした外交国防問題についても解決の糸口すら見い出し得ぬ現政権に対して,多くの国民は絶望的な気持をもって眺めているのが実情であろうと思う.

しかも,政権を奪取した時に掲げたマニフェストの根幹であった「政治主導」はほとんど有名無実化され,今や,前政権下よりもより過激な「官僚主導」がまかり通っている.いわば,「票を入れてくれたら,これをやります」という「約束」を公に公表し,その「約束」を耳にした多くの国民が票を入れたにもかかわらず,今になってその「約束」の多くを「反故」し続けている訳である.これでは胡散臭いツボやハンコを売りつける悪徳商法との間の構造的差異を見いだすことが難しい程の不道徳だと言われても致し方なき所であろう.

こうした中,国民の不満は徐々に高まりつつある.

無論,諸種の事情から,現政権の政策方針に基本的に「賛同」している大手メディア各社の偏向した報道のためか,政府の支持率は一桁にまでは落ち込んではいないものの,それでもなお,その支持率は低下の一途を辿っている.国民もメディアに完全にだまされる程には愚かではないのである.



過激な非自民としての「維新の会」

そんな中,今,大きく注目を集めているのが,橋下大阪市長が代表を務める「大阪維新の会」である.維新の会は地域政党であるが、この度、TPPの推進をはじめ、地方分権の推進、地方交付税の廃止、道州制の導入等などからなる「船中八作」という政策方針を公表し、国政選挙に打って出ることを表明している。そして、テレビ,新聞等の大手メディアは,こぞって橋下氏を大きく取り上げ,この平成日本全体の閉塞感を打ち破る可能性を橋下氏の中に見いだす論調を繰り返し発信し続けている.さらには,多くの政党も橋下氏に大きな期待を寄せ,直接間接の協力を維新の会に申し出ている.

こうした状況には,上記の現政権に対する失望感のみでなく,野党第一党である自民党に対する国民の不信感も色濃く反映されている.

そもそも,民主党を批判する常套句は「それじゃ自民党と同じじゃないか」というものである.これはつまり,「民主党」なるものは「自民党的なるものに対するアンチテーゼ」という一点にこそ存在意義があったことを示している.だからこそ世論においては,「民主がだめだから自民」とはならないのである.多くの国民は,いつの頃からか民主とは別の,反自民的,非自民的なるもの(さらに言うなら,反田中派的なるもの)を探し求めるようになったのであり,その受け皿として「維新の会」がスッポリとはまり込む格好となったのである.いわば,これまでかつて「民主党」が演じ,次に「みんなの党」が演じていた役割をより国民の皆様のご期待に添う格好で上手に演じている党,それが,維新の会なのである

実際,橋下氏のテレビでの発言は,政治家特有の曖昧模糊な物言いが全く無く,極めて歯切れ良いものである.弁護士という職業の中で鍛え抜かれ,しかも,一般国民がいとも容易くわかる様な発言をし続けなければレギュラー枠を取ることなど絶対にできない民法のゴールデンタイムの高視聴率番組で出演し続けることを可能にせしめた「話術」がある.橋下氏は,この類い希なる話術を駆使しつつ,多くの国民が期待している「自民的ならざるもの」を徹底的に演じ続けていると言うことができよう.

ところでもしもその演技が,日本の国益に叶うのなら,国民は皆,その役を演ずる橋下氏に最大限の敬意を表し,彼と彼率いる維新の会を徹底的に応援することこそが,日本国民として正しき振る舞いなのだと言わねばならぬであろう.

しかしもしも万一,それとは逆にその演技が,国益を損ね,国民の安寧と誇りある暮らしを根底から破壊するものであるのなら,どれだけ国民的支持が集まろうとも,世間の風潮に抗いつつ批判を差し向け続けることが,日本国民として正当なる振る舞いと言うことができるだろう.

では,橋下氏の演技は日本の国益に叶うものなのか否か───.



愚かしき地方主権論

この点について筆者は残念ながら,「維新の会」をはじめとする、「地方分権」や「道州制」等の「中央集権の抑止と地方分権の推進」のための諸政策をマニフェストに掲げるような政党が(その政党がどこの政党であれ),次の総選挙にて大きく勝利する様なことがあれば,国益は大きく損なわれるであろうことを「確信」している.

以下、その理由を説明したいと思う。

まず、大まかなイメージから言うなら、それは、次のような話だ。

例えば,強いサッカーチームには,個々人の才能も個々人の自由奔放なプレイも必要であるが,それにもまして必要なのは,優秀で,しかも強い権限を持つ「監督」である.そんな監督が不在であれば,どれだけ選手が優秀でもそのチームは連戦連敗とならざるを得ない.

無論,地方主権論者は「今の日本は、いわばその“監督”に権力が集中しすぎているんです。それを分散化して,選手がもっと自由に動けるようにすべきなのでしょう!」と主張することだろう.

しかし,今の日本は,震災復興、首都直下地震や東海南海東南海地震に対する対策や、日本のマクロ経済のデフレ不況からの脱却,早晩生ずるであろう世界大恐慌対策等,多くの国民と多くの自治体に対する中央の「指揮」が不可欠な国家的問題が目白押しなのである.

これらの問題に対処するには,迅速な国土強靱化のための国土計画の策定と推進,何十兆円という財政出動や積極的な金融政策であるが,これらはいずれも,昨今の改革に次ぐ改革によってもたらされた「中央の権限の弱体化」によって不能となってしまっている.

例えば国土構造の「分散化」一つとってみても,その実行のためには「強力な中央の権限」が求められている.つまり,国土の「分散化」のためには逆説的にも「集権化」が不可欠なのであり、逆に言うなら、「地方分権」を進めてしまえば「国土の分散化」が不能となってしまうのである.そうである以上、今よりもさらに過激に地方分権を進めれば、国土構造の分散化などより一層不能となり、我が国は、巨大地震に対して「脆弱」な国家に成り下がって行かざるを得ない。

あるいは、巨大な財政出動を伴う「震災復興」も「日本経済のデフレ脱却」も、それぞれの地方自治体ではどうにも対処しようの無い問題だ。

それは日本国政府による積極的な(それこそ、年間10兆円や20兆円規模の)「財政出動」と、それを支える日本銀行の積極的な金融政策をワンセットにして遂行していくことが不可欠なのである。

ところが、それを遂行しようとするなら、各省庁や各自治体や様々な業界、そして、日本銀行といった様々な組織を一つに「束ね」ていく中央の力が不可欠だ。ところが、中央政府の権限を、地方に分散化させていけばいくほど、何十兆円規模のそんな巨大な「チームプレー」を行うなんてことは不可能となっていく。そしてその結果、我が国は震災復興もデフレ脱却も不能となってしまい、被災地は放置され、日本国はアジアの「経済小国」にまで凋落していくことは避けられないだろう。

いずれにしても、防災も復興もデフレ脱却も、それぞれの自治体では太刀打ちできぬものだ。さらに言うなら、道州制などで議論される「州政府」なるものが仮に出来たとしても、同様だ。

つまり今、こうした巨大な危機に晒されている我が国に於いて求められているのは、地方分権を通していわゆる我が「チーム日本」をバラバラにさせていくことなのではなく、「チーム日本」の一体化を進めていく中央集権的方針に他ならないのである。



財源の分権で、地方切り捨て

以上が、「地方分権がすべからく是である」と考えることの愚かしさについての、基本的な説明である。つまりは、「兎に角、地方分権を進めた方が良い」と考えるのは、「兎に角、中央集権を進めた方が良い」と考えることと同じくらいに、論ずるに値しない程の馬鹿馬鹿しい思いこみなのである。

要は、中央集権は悪でも何でもないし、地方分権が善でも何でも無いのである。善や悪という言葉を使うのなら、中央集権と地方分権の間の不適切なバランスが悪なのであり、両者の間の良質なバランスが善なのである。

そして、巨大地震や日本経済のデフレ不況といった国家的問題が顕在化している状況を踏まえるなら、今、過剰に地方分権を進める事は「不適切」であることは、誰の目から見ても明らかなのである。

ただし、そうした「巨大地震やデフレ不況」といった問題を持ち出さずとも、道州制を含めた地方分権を進めることが、東京、大阪、名古屋といった大都市を除いた、「地方部」にとっては、極めて深刻な打撃を与えることとなる、ということを、読者はご存じであろうか───。

そもそも地方分権論では、様々な権限を地方に分権化していくのであるが、その中でとりわけ重要視されているのが財源の分権化、いわゆる「財源委譲」だ。

「財源委譲」と言えば、多くの国民は、何やら、地方が「得」をするような、イメージを持たれるかも知れないし、事実、維新の会は、それを政党の政策方針の重要な一項目として明示している。しかし実態は、多くの地方部においては、その真逆の事が起こるのである。

そもそも中央政府は、得られた国税の一定割合を「地方交付税交付金」(以下、地方交付金)として、地方に分配している。その際の地方交付金の金額は、それぞれの地域の「人口」に完全に比例して分配されているわけではない。なぜなら、人口規模が小さいところでも、自治体として存続するためには最低限の財源が必要とされるからである。人口に比例して分配してしまえば、「田舎」の自治体の財源は極端に小さくなり、「大都市」の財源は巨額なものとなる。

つまり、現行の税制は、地域間格差を是正する、所得の再分配効果を持っているのである。

ところが、中央政府からの交付金を取りやめて、税源移譲をしてしまえば、人口の少ない田舎の自治体は、財源が極端に小さなものとなってしまう一方、大都会の自治体は、より豊富な財源を得ることができることとなる。

つまり、道州制をはじめとした地方分権は、都市部だけを優遇して地域間格差を極大化し、地方を切り捨てていくこととなるのである。そうなると、都市はより一層人口が増え、地方部は一層衰退していくこととなる。

そもそも日本国政府は、弱肉強食を過剰に推し進め、歴史の中でかたちづくられてきた北は北海道から、南は九州、沖縄までの「日本国」を「保守」していこうとするために、上記のような「地方交付金」の制度を設けていたのである。ところが、地方分権を進められ、財源も地方分権化されてしまえば、日本国が、地方部から熔解していくこととなっていくのである。

こうした事情を、多くの自治体関係者は気がついているはずである。だからこそ、「地方分権」の議論は、大阪や名古屋や東京といった大都会の人々が、とりわけ強く主張する傾向があるのであり、実際に、橋下市長は、それを維新の会の重要な政策方針に取り込んでいるのである。



公債発行権の分散化で、地方は貧困化する

ただし───多くの大阪や東京、名古屋の地方分権推進論者も含めて、彼等ですらほとんど気付いていない彼等自身が「損」をしてしまう、地方分権の「本質的な問題」がある。

それが、「公債発行権の分権化」である。

そもそも、多くの国民が失念しているようにすら感ずるが、中央にせよ地方にせよ、政府の財源には「税金」だけでなく「公債」もある。先に述べた「税源移譲」による「地方切り捨て」の問題は、税金についての話であったが、「公債」についても分権化されれば、地方には大きな打撃が加えられることとなる。

そもそも、「公債」は、公的主体が発行する債券である。その公的主体に対する(市場の)「信頼」が高ければ高いほど、大量の財源を確保することが出来る一方、信頼が低ければ、それが出来なくなる。そして言うまでもなく、「日本国政府」は日本国内で最高の信頼を勝ち取ることができる主体である。だから、「国債」は「地方債」とは比べものにならないくらいに大量に発行することができる。

しかも、「日本国政府」の場合には、日本銀行との協調により、最後の最後は、通貨を発行する権限を持っている日本銀行の「金融政策」を通して、いわゆる「破綻」するリスクを基本的に回避することができるという最大の強みを持っている。

ところが、地方債の場合は、各地方自治体(あるいは、州政府)は、通貨発行権を持たない。したがって、あまりに大量の公債を自治体が発行してしまえば、かつての夕張市の様に(あるいは、EUにおけるギリシャがそうなりかけているように)「破綻」するリスクがどうしても大きくなってしまうのである。

したがって、公債の発行権が地方に「委譲」されてしまえば、東京や大阪、名古屋といった大都会でさえ、大量の公債を発行して、十分な財源を確保することが出来なくなってしまうのである。そうなれば、巨大地震が来ることが分かっていても、短期で迅速な防災対策を打つことが出来なくなったり、新空港やリニア地下鉄を早期に通すなどの巨大投資が著しく困難となってしまうのである。そして仮に無理をして巨額の地方債を発行すれば、ギリシャや夕張のように破綻するリスクを抱え込んでしまうこととなるのである。

つまり、税や公債を、中央から「地方委譲」してしまえば、どの自治体も(あるいは、州政府も)財源が減ってしまうこととなり、かつ、その傾向は、地方部においてより顕著となってしまうのである。



「道州制」の基本的な諸問題

以上が、地方分権を過激に推進した場合の本質的な問題であるが、その中でも特に、「政府の地方出先機関の廃止と道州制の推進」を行った場合の問題について指摘しておきたい。

第一に、現在、都府県間の様々な利害の対立がある場合、都府県よりもより上位の権限を持つ「国」が、その対立を調整することが可能である。ところが、複数の都府県をまたぐ「河川」や「道路」「鉄道」の整備や管理について、都府県の「寄り合い所帯」にしか過ぎない「州」では、その調整が不能となってしまう。その結果、治水対策も、国道橋のメンテナンスも不能となり、洪水が生じたり、橋が落ちたりするリスクが増えてしまうこととなる。

第二に、都府県や州のレベルでは、大洪水や大地震、大津波という大災害は、10年委譲、場合によっては数十年に一回程度しか発生しない一方、国レベルできれば、そういう大災害は、数年おきに生じている。したがって、そういう大災害対策のノウハウは、「国」レベルで蓄積していくことが最も効率的なのである。実際、今回の東日本大震災で、東北地方整備局を中心とした全国の整備局職員が、救援、復興において、自治体組織では到底対応不能であったような素晴らしい活躍を見せた事は、広く知られた事実である。

第三に───これが最大の問題であるが───州政府には、(江戸時代に形作られた藩に裏打ちされた)都道府県とは異なり、歴史的実態が伴っていないという問題がある。それ故に、職員や住民が、その州のために「真剣に頑張る」という思いを抱くとは限らないのである。例えば、地方分権推進論者の一人である、元総務大臣でありの片山善博氏は、鳥取県知事時代に、(都道府県で広域連合を作っても)「鳥取県のことは本当に一生懸命やりますけれども、やはり時分が代表として選ばれていない地域、しかしたまたま広域連合の長になったが故に管轄することになった地域について、本当に真剣に親身になってできるかというと、私は自信がありません」と明言している。この発言は恐らくは、片山氏だけが特別に思っている気持ちなのではなく、全国の知事や市長の平均的な思いであることは間違いないであろう。このような状況では、州政府が実態として大きく活躍することは、難しいと言わざるを得ないであろう。

いずれにしても、人間社会の「組織」というものは、どんな「仕組み」を作ろうとも、それを動かす人間のモチベーションが無ければ、全く機能しないのである。その一方で、凡庸な仕組みであっても、それを動かす人間のモチベーションが高ければ、素晴らしい働きをするものなのである。これは、何らかの組織を真面目にマネジメントした事が人であるなら、誰もが心の底から理解している事であろう。

そうである以上、首長が変わる度に、方針がコロコロ変えられたり、言う事を聞かなければ解雇する等と脅されたりスカされたり、さらには、組織自体が仕分けされたり縮小・解体されたりしてしまえば、その組織の人々のモチベーションが低下してしまい、その組織の働きが、極限にまで低下していってしまう事は避けられないだろう。だからこそ、かの流行のドラッカーならば、そういう下らない「組織改革ごっこ」は「最もやってはならない事」として、いの一番に排除する対象とするに違いないのである。

しかし、昨今の「改革」や「維新」のスローガンの下で徹底的に進められているのは、組織で働く人々の精神の動きを徹底的に無視した、ドラッガーのマネジメント論の真逆の取り組みなのである。これでは、全国の行政組織の働きが劣化し、結局は、全国の日本国民が不幸になっていくこととならざるを得ないであろう────。



今年こそ、適正な政権を選択すべし

恐らくは、これだけの問題点を提示しても、一部の地方分権推進論者は自らの結論を一切変えようとせず、「今の日本は停滞してるじゃないか、だから、改革が必要なんだ!」と声高に叫ぶかも知れない───もしそうであるとするなら、残念ながら、筆者はもう、そんな人々に対しては語る言葉を持たない。

なぜなら、「言葉」というものは理性に対して発するものである一方で、結論を固定して一切の論理を排除する様な理性を欠いた論者に対しては、発すべき言葉はこの世に存在しないからである。

もちろん、筆者がこれまで別の原稿で何度も繰り返しているような、改革などしなくても日本のこの停滞を打ち破る方法はあるのだ、という言説を、さらに紡いで見せることならばできる。しかし、それを理解する能力がある者ならば、以上に論じた地方分権の問題点についての議論を容易に理解するに違いだろう。つまり、事ここに至ってもまだ上記のように反論する論者がいるとするなら、彼は恐らく、「論争の結果、“勝った”という雰囲気を醸し出すこと」には興味があったとしても、真実を見いだすための「議論」そのものには、興味関心を持たない者であるに違いないのである───。

いずれにしても、本稿の読者に「理性」があるとするなら、地域主権や道州制には、ほとんどテレビや新聞、雑誌などでは取り上げられない様々な「問題点」が存在していることを、そして中央政府は、しばしば「国防と貿易だけ国にやってもらえばいい、それ以外は全て地方でやります」と言われること以上の、実に様々な役割を、現代日本で担っていることを、理解せざるを得ないのではないかと思う。

それにも関わらず───民主党が政権交代の際に掲げ、維新の会が「八策」に掲げた「地域主権」の路線が今後さらに「過激」に推進されれば、国と地方の適切なバランスがより大きく乱れ,国家的な取り組みの多くが座礁し,日本の国益が大きく棄損され,最終的に日本全国の諸地域と日本国民全員がさらなる不幸のどん底にたたき落とされてしまう可能性は、十二分上に予期されるところなのである。

そうした最悪の帰結を避けるためにも,一人でも多くの国民が,思考を停止するかの様に「地方分権!」「地域主権!」と声高に叫び続けることを差し控え,適正な国と地方のあり方を一つ一つの項目毎に是々非々で判断していく節度ある態度を、そしてそんな態度を湛えた「真っ当」な政治家・行政官に対する敬意を取り戻すことが求められているのである.そしてその上で,早晩行われるであろう総選挙にて,今度こそ日本国民は節度ある判断を下さねばならないのである.

もしそれが出来ぬのなら───「地方分権」によって丸裸にされた我が国日本は巨大災害や世界恐慌の直撃を受け,二度と立ち上がれぬ貧国へと凋落する危惧が極大化してしまうこととなる事は避けられないだろう.つまり我々は好むと好まざるとに関わらず,我国民自身のために,そして孫子の代の国民のために,適正で節度ある政治的判断を下さねばならぬ重大な瞬間に,今まさに直面せんとしているのである.


WiLL, 2012 April, pp. 198-207, 2012.
http://trans.kuciv.kyoto-u.ac.jp/tba/index.php/b4/job/160-bunkensyuken.html


【藤井聡】山本五十六とTPP~日本人の愚かしさが日本を亡ぼす~

山本五十六とTPP ~日本人の愚かしさが日本を亡ぼす~



京都大学大学院教授 藤井聡

 『聯合艦隊司令長官 山本五十六』という映画が年末年始にかけて話題を集めている.この映画は,山本五十六の大東亜戦争前夜から戦死するまでの間の物語を描いたものである.

 その物語は,次のようなものだ──米国の国力をよく知悉していた山本五十六は,米国と日本の間の戦力の格差,ならびに,艦船や軍用機の生産能力の格差が圧倒的なものであり,全面的な交戦が始まれば勝機はないと確信していた.それ故に,彼は海軍省の次官の頃から開戦決定に至るまで終始一貫してその開戦に反対し続けた.ところが,多くの軍人や政治家,そして大手新聞社と,それに誘導された国民世論も,一刻も早い日米開戦を熱望する.

 当然ながら,開戦に義が不在であるわけではなく,山本五十六とてその義を十二分に理解していた.しかし「米国との戦い方」には,外交交渉から全面戦争(トータルウォー)に至るまで無限のヴァリエーションが存在している.ところが,単純な言説を主張し続ける新聞の論調に誘導された軍部も政治家も国民世論も,真の国益に資する熟成した議論を拒否し,全面戦争を主張し続け,最終的には開戦が決定される.

 そんな議論の過程の中で,山本五十六はあるシーンにて「米軍おそるるに足らず」と発言したある将校に対して,次のように冷静に問いただす.

 「その根拠は?」

 そう問われた将校は,言葉に詰まる.それを見た山本五十六は,「戦争について語る上で,その勝負について根拠の無い楽観論は許されません」,と冷静に窘(たしな)める.

 ───この山本五十六の台詞は,この将校に対してのみ発せられたものではない.それは日本の国民の「愚かしさ」そのものに対して差し向けられたものだと解釈することができよう.

 当然ながら開戦決定後は,山本五十六は日本の勝利に向けて邁進する.しかし,圧倒的な戦力の相違故に,そして無根拠なままに楽観論を口にし続ける人々の度重なる愚かな判断故に,戦局は悪化の一途を辿り,挙げ句に彼は戦死し,そして日本は敗戦を迎えることとなる────.

 以上がこの映画のあらすじである.無論,歴史考証やその解釈については様々な異論があることは間違いないだろうと思う(とりわけ,山本五十六そのものについては近年様々なタイプの評価が供出されている).しかし,日本国民の中に,この映画が暗示する「愚かしさ」が皆無であったのかと問えば,それは必ずしも否定できぬところではないかと思う.

 そしてそんな「日本国民の愚かしさ」は,平成日本においてもそのまま存在していると言わざるを得ないと筆者は感じている.

 その典型事例が,TPPを巡る議論だ.

 紙面の都合から具体の議論は他稿に譲ることとするが,現今におけるTPP反対論者は冷静な事実と根拠を踏まえつつ,国益の最大化を企図した判断を主張している.ところが,TPP推進論者は根拠を明示しないままに楽観論だけを振り回し,大手新聞メディアは「外に打って出よ!」という勇ましい社説を繰り返している───.

 言うまでもなく,日本の命運に関わる根拠の無い楽観論は日本の現実の国益を大きく棄損することとなる.そうである以上,TPP賛成論者が,反対論者が提示する疑問点に完璧に合理性ある形で返答できぬ限り,日本の国益は凄まじい水準で棄損されることは間違いない.

 だからこそ筆者は,筆者の願いが成就する見込みは針の先ほども無きものであるやも知れぬとは知りつつも,日本国民がこの映画に描かれている程の愚かしさを持ってはおらぬ事を,あるいはその愚かしき状態から覚醒せんことを,心から祈念しているのである.日本が滅び去る事があるとするなら,それは外国の脅威によってなんかではない.我々の内に拭いがたく胚胎され続けている「愚かしさ」こそが,日本を亡国の渕へと導く究極的な根源因なのである.

日刊建設工業新聞,所論緒論,1.26,2012.

http://trans.kuciv.kyoto-u.ac.jp/tba/index.php/b4/job/140-tpp-yamamoto.html

【藤井聡】TPPを巡るウソ

藤井聡教授FBよりシェア

吉田兼好の徒然草には、「世に語り伝ふること ・・・ 多くや皆虚(そら)事なり」という下りがあります。TPP話は、ホントその典型だなぁ。。。と思いつつ、心にうつりゆくTPPのウソ話をそこはかとなく取りまとめると、11個もありました。



TPPを巡るウソ

『TPPが日本の建設産業を崩壊させる』


京都大学大学院教授 藤井聡


鎌倉の御代から、世間は虚そら事だらけである。

吉田兼好の「徒然草」の中に、次のような一節がある。

世に語り伝ふること

まことはあいなきにや

多くは皆虚そら事なり

つまり、「世間で言われていることの中に本当のことなんてほとんど無い、本当にウソ話(虚事)ばかりである」、ということである。そして、この下りは、次のような言葉で締めくくられている。

いひたきままに語りなして

筆にも書きとどめぬれば

やがてまた定まりぬ

「言いたいように好き勝手にいって、挙げ句に文字にされてしまえば、それがホントの事にされてしまう」。

 出家の身であった吉田兼好がこの徒然草を書きおこした時、世は鎌倉時代であった。彼は現代風に言えば有吉やマツコデラックス(あるいは少々マニアックであるが既に他界されたナンシー関)の様な「辛口批評家」で、それこそ心にうつりゆく「よしなしごと」(たわいもない事)を日々書きおこしていったのだが、それが世間の人々に大いにウケタのであった。しかもそれは鎌倉時代のみならず、現代に至るまで代々に渡って日本人に読み継がれてきたのであり、今となっては、教科書にも載せられてほとんど誰も知らぬ者などいない程の国民的な大人気作家となった。

 そこまで彼が時代を超えた大きな人気を得続けたのは言うまでもない、彼の書き残した一つ一つの「たわいのない、よしなしごと」の一つ一つに、人間や社会についての凄まじく深く深遠なる真実が胚胎されていると、多くの人々が時代を超えて深く直感し、感動を覚え続けてきたからである。いってみれば、「最上級の“あるある”」、それが吉田兼好の徒然草だったわけである。

 かくして冒頭で紹介した「世間の中にはうそばかり」なる言にも、深い「真実」が含まれているという事は、否定しがたいところなのではなかろうかと思う。実際、今日、そんな「世間に共有された虚話」のあからさまな実例を見て取ることができる。

 今日のTPPを巡る様々な言説である。

 筆者はこのTPP問題について、筆者の専門の関係から深く関わる様になり、世間でTPPについて言われている様々な言説やその背後にある理論を改めて確認していったのだが、文字通り、「まことはあいなきにや、多くや皆虚事」であったことに、改めて驚いたのであった。そして、色々な講演会やテレビなどで実に多くの(というよりも、大半の)「経済専門家」と呼ばれる人々が「いひたきままに語りなして」(好き勝手に語って)いる姿を目の当たりにし、新聞や雑誌や書籍、はては、学生に教え込む「教科書」にまで、その好き勝手に口にし続けてきた「虚事」が「書きとどめ」られてしまい、挙げ句には、それら全部を通して、「日本国政府の、TPPへの参加交渉への参加」という形にまで「定め」られてしまった事を目の当たりにしたのであった。

 いわば、好き勝手な「虚事」の暴走によって、一億二千万人もの国民を抱えた大国日本の中央政府の方針が、今まさに定められようとしているのである。

「自由貿易推進論」に見られる虚事

 いわゆるTPP推進論は、基本的には「自由貿易の推進論」に乗っかって主張されているものであるのだが、この「自由貿易の推進論」そのものに、びっくりしてしまうほどに明らかな「真っ赤な嘘」が数多く含まれている。ここではその代表的なものについ紹介していくことにしよう。

(虚事1)日本は、諸外国に比べて輸出依存度は低い。

 この思いこみは本当に世間の中に強い。しかし、日本のGDPに占める輸出額の割合はたった1割強しかなく、TPP参加交渉国10カ国の中でも下から数えて二番目の低い水準である。日本は貿易立国でもなんでもなく、内需主導の経済大国なのである。だから「日本は輸出を伸ばさないと生きていけない」なんてことは全く根拠のない思いこみにしか過ぎないのである。

(虚事2)日本の市場は閉鎖的だ。
 この思いこみも又、一般世論に強いようである。日本の平均関税率はアメリカ以下であり、農産品関税率は欧州以下である。自動車の関税に至っては、アメリカには2.5%ある一方で、日本はゼロである。さらにアメリカを除くTPP参加交渉国8カ国のうち、実に6カ国と自由貿易協定の締結・交渉を行っている。つまり日本の市場が閉鎖的だなどというのも全くの嘘話なのであり、それを根拠に「閉鎖的な日本を開かなければならない」という言説も、病理的な思い違いにしか過ぎないのである。

(虚事3)グローバル経済時代の今、海外との連携は必須だ。
 この思いこみは、特に経済に詳しい方々の間で強いようである。確かに、世界はグローバル化してきたことは事実である。しかし、2008年のリーマンショックを境にして、世界経済の動向は全く位相が異なるものへと変化したのが実態だ。
 今誰もが危惧しているように、欧州はギリシャ国債問題に象徴される様な危機的な状況に至っており、EU全体の平均失業率は10%にまで上昇している。米国も又、リーマンショック後失業率が向上し、同じく10%程度にまで上昇している。さらに、世界経済を牽引すると目されてきた中国も、今やバブル崩壊の危機に直面している。 つまり、2008年以降、欧米中と、今、余裕をもって日本からの輸出をたくさん買い取ってくれる国はなくなってしまったのである。この様なグローバル大恐慌へと向かいつつある今、海外と連携を進めれば進める程、日本は大きな被害を受ける見込みは日に日に増大しつつある。
 グローバル化で日本が利益を得られるのは、2008年以前の様に、海外に旺盛な需要があり、たくさんの日本製品を買い取ってくれる時代に限られるのである。世界中がデフレの時代には、連携を進めれば進める程に、日本はさらなるデフレを輸入してしまわざるを得ないのである。

(虚事4)世界最大の経済大国米国と経済連携を進め、共存共栄を図ろう
 この様な主張は、エコノミストの方々や、さらには保守系の論壇においてしばしば耳にするものである。上記の(虚言3)とも関連するものであるが、米国も日本も共に好景気で、失業者もなく、旺盛な需要を抱えている状況では、日本人は米国からのさらなる輸入を必要とし、米国人も日本からのさらなる輸入を必要とし、両者の経済圏を一体化することを通して共存共栄を図り、両者でもって世界経済を牽引していく、というシナリオはあり得ぬ話ではない。しかし今や、日米共に深刻なデフレ不況にあえいでおり、この状況で日米経済連携を図れば、「共存共栄」どころか「失業の押し付け合い」が始まることは避けられない。事実、オバマは、米国内で拡大した失業対策のために「輸出倍増戦略」を立てており、米国が日本にTPPの話を持ちかけたのは、この戦略の一貫なのである。
 さらに言うなら、米国は20年以上も前の日米構造協議の頃から終始一貫して日本の巨大な市場を狙い続け、様々な市場開放要求を突きつけ続けてきている。その中で、リーマンショック以後さらにその圧力を高めて、このTPPの話が進められているのである。TPPによって実現するのは、バラ色の共存共栄の世界なのではなく、「米国による日本への経済侵攻の過激な推進」なのである。

(虚事5)もう内需は伸びない。外に打って出るしかない。

 この思いこみは、世論に於いて極めて根深いように思う。マスコミ世論のみならず、世間で耳にする大半の話が、全てこの思いこみに基づいて形成されているようにすら思える。しかし内需が伸びないのは、日本が先進国だからという事実や少子高齢化などの「どうしようもない原因」によってなのではない。
 日本の景気が後退した過去15年間、欧米先進国は軒並み経済成長しているし、少子高齢化が進んだドイツもロシアも経済を成長させている。日本の内需が伸びないのは、需要が供給よりも少ないことで生じる「デフレ」だからであり、かつ、そのデフレ対策を一向に図ってきていないからである。
 需要が供給よりも少ないのがデフレの原因である以上、増税を控えつつ公共投資などを中心として需要を拡大すると共に、規制緩和ではなく「規制の強化」を図って供給の拡大を抑止すれば、内需は拡大できる。そうであるのに、日本はデフレを促進するような数々の対策、
すなわち、1)増税、2)規制緩和と自由化、3)公共事業削減を、
自ら進んで図ってきたのであり、これでは内需が拡大し、デフレ脱却が図れるはずがない。
 いずれにしても、内需が伸びないのは「確定事項」でもなんでもないのであり、公共投資を行ったり規制の強化を行うことで政策的に拡大できることは論理的に明々白々なのである。
 だから、外に打ってでる「しか」ないという言説は、現実を見て見ぬふりをする様な病理的な思いこみにしか過ぎないのである(なお、公共投資のために建設国債を発行すると、日本経済が破綻する、という思いこみも多くの国民の間で共有されてしまっているのだが、それもまた、ここまで述べてきた数々の虚事と同じく、完全なウソ話である。
 紙面の都合上簡潔に述べるに留めるが、デフレ経済下では、日銀による金融政策による資金供給の余地が膨大に存在しているのであり、建設国債の発行にあわせて日銀による金融政策を行えば、日本経済に一切の混乱を与えないままに、数十、あるいは百兆円規模で資金調達が可能な状況にあるのが実態だ1)。


「TPP推進論」に見られる虚事

 以上、「自由貿易推進論」のおおよそが、単なる虚事、嘘話であり、もうこれだけで、TPP推進論は基本的に崩壊していると言うことができるのだが、「TPPそのもの」についてもまた実に多くの嘘話が横行している。以下、それらの中でも代表的なものを一つ一つ見ていくこととしよう。

(虚事6)TPPでアジアの成長を取り込め!

 TPP交渉参加国10カ国における日本を除く「アジア」のGDPのシェアは、たった4%にしか過ぎない。原理的にTPPでアジアの成長を取り込むことなど不可能である。

(虚事7)TPPに加入しなければ、日本は世界の孤児になってしまう!

 TPPは日本が関与する様々な経済連携のたった一つにしか過ぎない。二国間のFTA,EPAや、ASEAN、さらにはFTAAP等、様々な枠組みがあるのであり、TPPに加入しなければ日本は世界の孤児になる、ということは原理的にあり得ない。

(虚事8)TPPに加入して、日本に有利なルール作りに参加すべき!

 TPP交渉は、その前身のP4から数えて既に足かけ10年近くも重ねられてきており、基本的に今年の6月頃の締結が目指されている。一方で、今どれだけ日本が加入を急いでも、正式の交渉に参加できるのは今年の5月頃と言われている。数年間かけて多くの国々が議論してきた交渉に、たった数ヶ月参加したところで、日本にとって有利なルールができることなど、万に一つもあり得ない。
 しかも、日本がTPPの「交渉」に参加するためには、米国議会の「承認」が必要である。つまり、米国議会が認める程に、「日本のTPP参加が米国にとって旨味のあるもの」でなければ、日本はTPPの参加交渉を始めることすらできないのである。遅れて加入する日本の立場は、それほどまでに「弱い」ものなのであり、TPPにおいて日本主導の経済ルールができあがる見込みはほぼ皆無と言って良いほどの水準にあるのが実態なのである。
 なお、TPPにおいては、TPPの合意事項は四年間、国民に対して「秘密」にすることが既に合意されているという点もここに付言しておこう。つまり、もしもTPPが日本にとって不利益をもたらすルールを含むモノであったとしても、日本国民がその事実を知ることが出来るのは、TPPが国会で批准され、発効し、それがしばらく運用されてからなのである。つまり、我々日本国民は、TPPのルール作りの全てを、ここまで述べてきた全ての虚そら言を頭から信じ込んでいる「政府」に全て委ねなければならないのである。これでは日本の国益を守るルールが作られる様なことなどは、絶対にあり得ないと断定しても良いだろう。

(虚事9)TPPは中国包囲網だ!

 最近しばしば保守系のメディアなどで現れ始めた論調であるが、これもまたメチャクチャな嘘話である。
 そもそもTPPを推し進める自由貿易推進論者は、上記のように「アジアの成長を取り組む!」などといっていたわけだが、それはつまり、中国の成長を取り込む、さらに言うなら、中国にモノを買ってもらおうとする話である。
 いわば、自由貿易推進論者は、中国を「客」と見なしていたわけであるから、その客を「包囲する」等とは全くの矛盾をきたしている。さらに言うなら、経済連携と軍事同盟は、相互に無関係とは言えぬまでも、全く別の政治課題である。この論点もまた、検討するに値する水準に無いものなのである。

(虚事10)TPPで、中小企業は大きなビジネスチャンスを得ることができる!

 これはTPPを巡る数々の虚事の中でもトップクラスの虚そら事と言えよう。恐らくは、TPP反対論者による「TPPによって中小企業が壊滅的なダメージを受けることとなるだろう」という言説に対するカウンターの意味で言われ始めたものだと思われるが、TPP推進論者はしばしば、「海外との経済連携が不十分なため、世界でも十二分に勝負のできる高い潜在能力を携えた中小企業が、世界で戦えなくなっており、それで、大きな潜在的な不利益を被っている!」という論陣を張ることがある。しかしTPPによって恩恵を被る可能性を持つ中小企業は、極めて限定的である一方、TPPによって存在を被る可能性がある中小企業がほとんどだという事実を忘れてはならない(しかも、世界で戦える様なレベルの高い中小企業は、TPPがあろうが無かろうが、世界で戦うことができるという事も忘れてはならない)。
 そもそも、海外に直接輸出している企業は、大企業も含めてたった2000社のうち1社程度しかない。TPPで、近い将来にそういう輸出関連企業がふえたとしても、日本の企業の体勢を占めるほどになることなど、万に一つもあり得ない。つまり、TPPで得をする中小企業が存在する事があるのだとしても、それ以外の99%以上の企業は、何の恩恵も被ることはできないのであり、むしろ、海外の大企業の日本国内への参入によって、大きな存在を被り、倒産の危機により深刻に直面せざるを得ないのである。

(虚事11)TPPで経済成長を!

 最後に、TPP推進論の最大の論拠である「TPPで日本は経済成長する!」という点もまた、真っ赤な嘘なのである。そもそもTPPの推進を図ろうと躍起になっている政府が公表している数値は、10年間で2.7兆円のGDP増加効果というものである。しかし、これは1年間に換算すれば、0.27兆円であり、これは日本GDPもわずか0.05%(!)にしか過ぎない。500万円の収入の世帯に換算してみれば、それはたった2700円にしか過ぎない。年収2700円増える、というのがメリットだと言われても、その世帯にとってそんなもの、ほとんど意味の無い、誤差程度の数値だとしか思えないであろう。
 しかも、この数値ですら、「過大推計」されたもの、いわば「粉飾」されたモノであることが知られている。そもそもこの数値計算は、応用一般均衡モデルというもので推計されたものであるが、このモデルでは「自由貿易が進んでも失業者は出ない」という前提をしいている。しかし、海外の大企業が日本国内に参入すれば、日本国内の多くの中小企業が倒産し、それを通して内需がさらに縮小し、GDPそのものが低下していくことが予期されている。つまり、その点を考慮に入れた数値計算を行うなら、GDPはプラスになるどころかマイナスになる事もあり得るということとなる。さらに、この数値計算においては、為替が今日ほど極端に「円高」であることが前提とされてい「ない」ものである。円安であるなら自由貿易の推進が、GDPの拡大をもたらす可能性が考えられなくもないところではあるが、今日ほど極端な「円高」の場合、自由貿易の推進派、日本への輸入を増やすだけで、日本からの輸出は増えるとは考えがたいのである。事実、平成23年度からの円高によって、輸入が輸出よりも相対的に増えてしまい、我が国は久方ぶりの「貿易赤字」を抱えることにもなったのが実態だ。だからこの点を勘案すれば、TPPに加入した時には、GDPが増えるどころか、減少してしまう可能性の方が濃厚なのである。

 いずれにしても、TPPの推進を目論む政府が、TPP推進を正当化するために精一杯「粉飾」して公表している数値そのものが、GDPのたった0.05%に過ぎないという事実は、TPPが経済成長にとって「効果的でない」ということをあからさまに証明しているのである。

 以上、TPPの推進そのものを巡る数々の虚そら事を見てきたが、こうした認識は、徐々に国民の中にも知られはじめ、農業や医療・保険をはじめとしたいくつかの業界で、TPPに対する強い反発の声が上がっている。

 しかし、深刻な影響が及ぶであろうことが予期されているにも関わらず、ほとんど反対の声が上がってこない、不思議な業界もいくつか存在している。

 その代表的な業界が「建設業界」である。

 筆者はTPPが建設業界に及ぼす深刻な影響を、2011年初頭から主張し続けてきた。しかし、建設業界は驚くほどにTPPに対して無関心の態度を貫き続けている。

 その背後には、建設業界特有の思いこみがいくつかあるようである。その代表的な思いこみが、

(虚事12)米国は日本の建設市場には入って来ないだろう

というものである。実際、これまでベクテルをはじめとした米国の大手建設会社は、日本の市場に参入することを失敗し続けてきた。
 しかし、米国は、日本の建設市場を決してあきらめてなどいない。そもそも日本の建設市場は、これだけの不況の中においてすら、米国を除く世界中の国々の中で、最大の市場規模を誇るものである。だから米国は、これまで日本の建設市場への参入を画策し続けてきているのである。
 そもそも日本の商習慣であった建設談合が法的に取り締まられるようになったのは、日本政府の自主的な判断によるものではない。米国からの「要求」でそうなったのである。そして、米国がそういう要求をし続けてきたのは、米国の建設関連企業が、日本に参入するために、日本特有の談合をはじめとする様々な商習慣が「邪魔」であったからなのだ。そもそも独占禁止法が強化され、公正取引委員会の権限が大幅に強化されてしまったのは、米国の様々な企業の日本市場への参入を促したい米国政府の強力な圧力に、日本政府が屈してしまったからなのである。

 こうした背景の下、日本の建設市場のルールが近年、大幅に改変させられてきたのだが、かといって、米国の建設企業は日本の市場に大幅に参入してきてはいない。これは要するに、未だ日本の建設市場に参入するには、米国企業にとっては様々な「障壁」があるからに他ならない。いわゆる「談合」はほとんど無くなったものの、様々な業者が受注できるように「発注ロットサイズ」は諸外国に比べて小さく設定されている。だから、米国企業が参入してぼろ儲け出来るほどの大規模な発注は未だ限定的である。それに加えて、いわゆる「トンネル発注」(元請けが受注した仕事の大半を、下請けに回すことが禁止されている)が規制されていたり、施工管理技術者制度など日本固有のルールがいくつも存在している。
 そもそも、各国の建設産業は、最も特殊な産業であり、それぞれの国に様々なルールがあるのが当たり前であり、だからこそ、簡単に進出することは容易ではないのである。

 しかし、米国の狙いは、
「日本市場を、完全に米国市場と同じものに改変し、それを通して、豊かな経済大国日本で米国企業が簡単に商売ができるようにする」

 という状態を作り出すことである。つまり「日米の市場を一体化させること」そのものが米国の狙いなのであり、その狙いが実現するまで、米国は日本に対する市場開放要求を止めることはないのである。そして、その目論みの餌食にされてきたのが、「農業」であり「医療・保険」なのであるが、それらの市場に対する「侵攻」が終われば、すぐさま、最大の市場である「建設」にまで、米国の触手が伸びてくるであろうことは火を見るよりも明らかである。言うならば、「建設市場」こそ、米国の日本への経済侵攻から日本を守る「最後の砦」なのである。

 しかし、TPPに日本が加入すれば、日本の国内市場の最後の砦である、日本の建設市場への米国の「侵攻作戦」のお膳立ては、完全に整うことになってしまう。
 そうなれば、日米間にあるあらゆる制度上の相違が、「日本市場の閉鎖性」として非難され続けることとなる。 そして、自由主義経済をあらゆる社説の基本に据えている日本の大手メディアも全て、その論調に同調することとなる(過去20年間、どれだけメディアが建設業界を叩いてきたのかに思いを馳せれば、この点については容易にご理解いただけるのではないかと思う)。
 そうなれば、日本の建設業界は、米国のみならず、日本国内のマスコミ世論によっても総攻撃を受け、日本の建設市場を米国に完全に開放せざるを得ない状況に追い込まれるようになるだろう。

 そうして日本の建設市場における「発注ロットサイズ」は早晩、米国並みに引き上げられ、中小の建設業者が受注することが厳しくなってしまうだろう。そもそも、米国には、よほどの事情がない限り中小の建設業者はあらかた「淘汰」されてしまっているのであり、日米の市場の同質化が進めば、日本に於いても多くの中小の建設業者が「淘汰」されることになるのは避けがたい。

 さらには、現在は規制されているいわゆる「トンネル発注」もまた、認められることとなるだろう。そうなると、現地の事情に詳しくない米国企業が受注し、それを、現地の事情に詳しい国内の建設企業に下請け発注するという事が横行することとなろう。そうなれば、発注額の一部が米国に流出していくと共に、国内の建設企業の収入はさらに減少していってしまうこととなろう。

 そして何より、TPPにおいて進められる「資本の自由化」によって、デフレ不況で傷ついた国内の建設企業の「買収」が進むこととなろう。そして、米国の大企業の系列化が進み、受注額の一部が、米国に吸い上げられ続ける仕組みが創出されることとなろう。
 さらには、「弱肉強食」を当然のことと見なす「アメリカ型の経営方針」が日本国内においてますます採用されていくこととなり、日本の建設業界内の様々な習慣が、ますますドライで、アメリカ的なものとなっていくことだろう。そして、多くの建設関係の労働者が解雇され、中小の建設業者はあらかた潰されていくこととなるだろう。
 アメリカ企業というものは、日本人の普通の感覚では全く理解できないほどドライであり、社員の雇用を守り、社員の家族の暮らしを守るために事業を続けるという多くの日本人が抱いている当たり前の感覚をほとんど持っておらず、仕事上の長い付き合いを大切にするという風習も持ち合わせてはいないのである。

 最後にもう一つ付言するなら、TPPに加入すれば、これまで以上に「安い」建設案件も建設コンサルタントサービス案件も、国際競争入札案件になるであろうことがほぼ確定的である。そうなれば、米国企業の日本市場への進出は、さらに進んでしまうこととなる事は避けられないだろう。

 この様に、米国の何十年にもわたる「日本市場の開放作戦」は、TPPへの日本加入によって最終段階に至り、「最後の砦」であった建設市場もまた、米国の大企業達によって侵攻されてしまうこととなるのである。そして、日本の中小の企業はあらかた潰されていくことになっていくのである。

 その一方で、もしも日本の建設会社が米国市場に参入できるのならば、それで五分五分ということになるのかもしれないが、残念ながら、そのような未来は絶対に訪れない。

 そもそも、「各国固有のルール撤廃」が、このTPPの狙いなのであるが、日本ほどに様々なきめ細かなルールを持っている様な繊細な国は、世界中どこを見回しても存在していない。
 例えば米国に、日本人の様に社員や社員の家族をもっと思いやるような風習を持つようにさせたり、地域の発展のために「経営は苦しいけれど共に頑張ろう」と誓い合ったりするような文化風習を持つように圧力をかけ、それが成功するならそれに越したことは無いだろうが、そんな事が近い将来に現実的に可能となるだろうと思う日本人は一人もいないのではないだろうか。つまりは、各国固有のルール撤廃を徹底化したとき、最も多くのルールの撤廃をしなければならないのは、米国ではなく我が国日本なのであり、米国をはじめとする諸外国は、大したルール改変は不要なのである。つまり、ルール交渉において、「日本が一人負け」することは火を見るよりも明らかなのである。

 ここまで説明しても、大手の建設業者は脅威を感じないかも知れない。なぜなら、一定程度米国企業に発注を取られても、海外部門を一定程度増強したり、これまで中小の建設業者が受注してきた市場に参入すれば、ある程度受注額を維持していくことが可能となるからだ。

 ここに、TPPに対して大手建設業者が強く反発しない本質的な理由があるのではないかと思う。

 一方で、中小の建設業者は、「仮に海外大手が日本市場に進出することが合っても、まさか今、自分たちが受注しているローカルな小規模の事業に参入することはないだろう」と考えておられる方々は多いのではないかと思う。これもまた、建設業界でTPP反対論が大きなうねりとならない原因だろうと思う。

 しかし、ここまで読み進んで頂いた方々におかれては、それは楽観的に過ぎる見込みであることをご理解いただけるのではないかと思う。日本がTPPに加入すれば、今大手が受注している仕事に米国大企業が参入し、その結果今、国内大手は国内の中小企業が受注している市場に参入し、その結果さらに、零細企業が今受注している市場に中小企業が参入することとなり、より小さい企業ほど「淘汰」されていくこととなるからである。要するにTPPは「(米国の大企業ですら参入出来てしまうほどに)日本の建設市場そのものを大企業しか生きていけない様なモノに改変してしまう取り組み」に他ならないのである。

 このようにTPPに加入すれば、全国の建設企業が、早晩、根底から崩壊していくことになることは避けがたいのだが、そうなったとき、最も不利益を被るのは、実は日本国民なのである。

 洪水や土砂崩れ、地震や津波、豪雪などが頻繁に起こる我が国日本の国土の上で日本人が安心して暮らしていけるのも、それぞれの地域に中小零細の建設企業が残されてきたからである。さらには、このグローバル化が進む日本社会の中で、さしてグローバル企業と対抗出来るような産業を持たない様な地方を守り続けてきたのは、地方の建設産業が生み出す雇用であったという事もまた、地方の建設産業の重大な公的意義だったと言うことができるだろう。

 いわば、日本の中小零細の建設企業は、「半官半民」の存在なのであり、日本の国民の暮らしを守ってきた存在なのである。

 しかし、100%商売の論理だけで世の中の仕組みを作り替えようとするTPPは、そうした建設業者が担ってきた「半官」の側面を全く無視し、さながら「道ばたに咲く菜の花を戦車で踏みつぶしていく」が如くに、地域の建設産業を崩壊させ、人々の暮らしを破壊していくものなのである。

 こう考えればTPPは、単に損得の問題だけではない、という事をご理解いただけるのではないかと思う。それは日本人の暮らしと日本の風土、そして、日本の歴史を保守することができるか否かの問題ですらあるのである。TPPの賛否を巡る議論は、この点に思いを馳せぬ人々と思いを馳せる人々との間の、言うならば「人は何のために生きているのか」という問いを巡る論争でもあるのである。

 もしも、日本人がこれまでの様に普通の日本人の暮らしを守りたいと思うのなら、日本国民は是が非でも、TPPへの参加を拒否しなければならない。そのためにも、2012年は「勝負の年」になるだろう。おそらくは、年内に行われる「TPP参加を巡る衆議院の国会決議」で、TPPを否決する国会議員が半数に達すれば、TPPへの不参加が確定する。さもなければ、TPPへの参加は確定してしまう。TPPの衆議院での否決を導き得る政局を作り出すことができるか否か───2千年の歴史を持つ我が国日本の「国家の命運」は、(大袈裟な話でも何でもなく)まさにその一点に掛けられているのである。

『中小商工業研究』2012年4月1日号
http://trans.kuciv.kyoto-u.ac.jp/tba/index.php/b4/job/141-tpp-soragoto-1.html



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