スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

【藤井聡】今こそ、公共事業で巨大地震に立ち向かうべし

「コンクリートから人へ」で国亡ぶ
~今こそ、公共事業で巨大地震に立ち向かうべし~

京都大学大学院教授 藤井聡

●激甚なる東北関東大震災

 平成二十三年三月十一日、戦後の日本人が一度も経験したことが無い様な激甚なる被害が、我が国を襲った。東北関東大震災である。激しい地震の揺れに加えて、青森から千葉にかけての500キロにも及ぶ広い海岸域全体に、巨大津波が押し寄せた。震災発生三日目の本日においては、その被害の全容は未だつかめていない。しかし、いくつもの町を丸ごと壊滅させる程の壮絶な被害は、「未曾有」という言葉ですら言い表せぬ程の凄まじい被害であった。この震災を目にした多くの日本人は同胞の死を悼み、被災地にて生き延びた方々の苦しみに心を痛め、一人でも多くの方々が救助される事を祈ったに違いない。

 この巨大地震は多くの日本人にとって、想像を絶するものであった事だろうと思う。しかし、少なくとも大きな津波を伴う地震がこの地域を襲うであろうことは、ほぼ確実に予期されていたことでもあった。

 『──東北地域においては、三陸沖北部地震、宮城県沖地震がそれぞれ予想されている。ここに、三陸沖北部地震の30年以内の発生確率は90%、そして、宮城県沖地震に至っては99%発生することが予想されているのである。(中略)こうした背景から、我が国政府は、中央防災会議の議論を受けて、ここ何年もかけて、様々な対策の準備を進めてきた。(中略)しかし、皮肉にも「コンクリートから人へ」の転換によって、ほぼ間違いなくいつかどこかで生ずるであろう巨大地震によって失われる「人」の命の数を、増加させてしまうことは避けられない。』

 これは、昨年十月に出版した拙著『公共事業が日本を救う1』の中の『「人」が死ぬことを防ぐ『コンクリート』は不要なのか』の中の一節である。もちろん、今回の大震災の地震の規模は、一部の専門家にしか想像出来なかった程に、巨大なるものである。それ故、どれだけの準備をしていたとしても、その被害を完全に防ぐことは不可能であったことは認めざるを得ないだろう。例えば今回の地震津波は、世界一とすら言われた宮古や田老の津波堤防をさえ乗り越え、街々を破壊し、多くの人々を死に追いやったのだった。

 しかし、防災のための公共事業を取りやめて良かったのかといえば、決してそうではなかろう。どんなに巨大な地震であっても、その被害を軽減する「減災」は、絶対に可能なはずだったからだ。例えば今回、数多くの小中学校を含めた多くの建物が倒壊し、橋が落ち、至る所で崖崩れが生じた。しかしそれらの中には、公共事業費さえ削られなければ防ぐ事ができたものがあったに違いない。そして何より、防災のための公共事業費がもっと潤沢にあれば、「津波の時に逃げる」という人々の数をもっと増やす様な準備(専門家はそういう取り組みを「リスク・コミュニケーション」と呼んでいる)を、それぞれの街々で徹底的に行うことだって可能だったはずなのだ。



 つまり極めて遺憾ではあるが、防災事業を含めた公共事業全般を否定する様な考え方やそれに基づく「事業仕分け」が、今回の死者数を含めた被害の程度を拡大したであろうことは、冷静に客観的に考えれば万人が認めざるを得ないのだ。それを思えば、「コンクリートから人へ」というスローガンが如何に軽薄で空疎で、しかも「破滅的」なものですらあったのかをご理解いただけるのではないかと思う。そもそも『この現代文明社会の中では、「人」は「コンクリート」の中で「コンクリート」に守られつつ暮らしている2』のだ。繰り返すが、この現実を見据え、なすべき公共事業を可能な限り進めることが出来ていたなら、今回の巨大なる地震・津波災害においても、亡くならずに済んだ方がもっとおられたに違い無いのである。

 しかし、『地震が起こってから後悔しても、もう遅い3』。悔やんでも悔やみきれぬ話である。
●活かせなかったNZ大地震の教訓

 今となっては遠い昔の事の様にすら感じてしまうが、僅か数週間前(筆者がこの文章を書いている執筆日から見れば、たった数日前)の、三月十一日「以前」の世論の空気を少しでも思い起こしていただきたい。「その頃」、世間は「政府の公共事業なんて、莫大なカネを使って、役立たない様な無駄なものばかりつくっている」といった論調に充ちていた。テレビでも新聞でも雑誌でも、はたまた職場や飲み屋やお茶の間の日常会話の中でも、そんな論調や認識が支配的だったのだ。

 しかし例えば、過日のニュージーランドでの大地震は、連日報道でも大きく取り上げられていた。その被害を目にすれば、地震大国である日本はそこから学ぶべき事は数多くあったはずだった。しかし、国内のマスコミ各社が報道したのは、地震の被害に関わる事実関係ばかりだった。

 「こんなひどい被害を受けないために、我が国はどんな防災対策を公共事業として進めて行くことが必要なのか」といった理性的な議論は、ついぞ聞こえてこなかった。

 繰り返すが、東北地方での大震災は、見込まれていた規模の違いこそあれ、確実に予測されていたことだったのだ。それにも関わらず、ニュージーランドの大地震を目にして、防災対策のための「公共事業」は、やはり進めねばならぬのだとの動きは見られなかったのである。「地震は怖いが、どうせ公共事業なんて無駄だろうから、やっても意味無いだろう───」、それが我が国を被っていた気分だったのだ。それ程までに、「公共事業」の必要性が顧みられる事が、日本から無くなってしまっていたのである。

●世論を席巻した公共事業不要論

 筆者は「土木計画学」というインフラの政策論を専門とする者であるが、この「土木」という学問は、経済学や政治学ほどには世間に知られた学問ではないもののその歴史は古い。例えば、筆者が勤務する京都大学が明治政府によって開設された時にはたった二つの学科で構成されていたのだが、その内の一つが「土木工学科」であった。

 そんな明治の時代といえばまさに近代国家黎明期、日本中が近代国家を形作らんと躍起になっていた。日本には欧米列強並の国家になるために不可欠な鉄道や道路、港や堤防といった基礎的なインフラが、絶対的に必要とされていた。だから、そんなインフラを担う研究者・技術者を排出すべく、当時の明治政府は帝国大学に土木工学科を「いの一番」に開設したのだった。

 それから一世紀以上の時が流れ日本は「先進国」と呼ばれる国家となった。先の大戦に破れはしたものの、その後に驚異的な復興を見せ、二十世紀後半にはGDP(国内総生産)の総額も、一人あたりのGDPも世界第二位にまで上り詰めた。

 我が国に「公共事業・不要論」が声高に叫ばれるようになったのは、ちょうどその頃からである。

 つまり、明治や大正の頃のように「欧米に追いつけ追い越せ」の時代は終わり、「欧米に追いついたんだから、もう公共事業なんて要らない」という空気が、世論を席巻してしまったのである。

 筆者はちょうど、そんな時代に学生時代を過ごし、何の因果か土木という世界の学者になった。当然ながら筆者もまた「公共事業・不要論」の空気を日々吸い込みながら青年期を過ごしたものだから、「公共事業なんてもう要らない」という想念に当時は完全に支配されていたのをよく覚えている。

 しかし、インフラの政策論について研究を重ねるほど、基本的なインフラ不足によって日本人の豊かな暮らしと安寧が蝕まれていく様が少しずつ見て取れる様になっていった。例えば冒頭で指摘したような、東北を襲う大地震に立ち向かうためには様々な公共事業が必要であること、その一方で、そのための予算が毎年過激に削減され、十分な防災・減災対策ができずに、結果として、東北の人々の生命と財産の安全が脅かされている様がありありと見て取れるようになっていったのであった。

 そしてその一方でマスメディアによって喧伝されている「公共事業・不要論」は、単なる「イメージ」以上のものでしかなく、そこには明らかな「誤謬」が充ち満ちていることに、一つ一つ気づいていったのだった。
●日本は「道路後進国」

 例えば、公共事業の中でも最大規模の財源を必要としている「道路」に関して、「日本は道路だらけの〝道路王国〟だ。もうこれ以上の道路なんて要らない」と主張され続けてきていた。そしてそんな世論があればこそ、道路公団は民営化され、ガソリン税は一般財源化された──、そんな経緯を朧気にでもご記憶の読者の方々は決して少なくは無いだろう。

 さて、そんな議論の際によく使われたのが図1であった(少なくとも筆者は、テレビ、雑誌、書籍でこの図が使用されたことを幾度となく確認している)。

 ご覧の様にこの図1では、日本だけが異様に道路が長い、という印象を与えるものである。しかし、そもそも山がちの国土を持つ日本は、平野が国土の大半を占める欧米諸国に比べて可住地(人が住める場所)が圧倒的に狭い。したがってこの図で日本の値が一番大きくなるのは言ってみれば「当たり前」だ。

 さらに言うまでもなく、道路は「可住地」以外にもつくるものである。それ故「可住地面積あたりの道路の長さ」などといった指標は、全くナンセンスなものなのである。だから、都市公園や下水道といった可住地にしかつくらないものならいざ知らず、他でもない「道路」の整備水準を、この指標で国際比較することは、普通専門家ならば誰もしやしないのである。

 一方で「クルマが多い国には道路がたくさん必要」なのだから、図2の様な「自動車一万台あたりの道路延長」等で国際比較をするのが一般的だ。ご覧の様に図1と図2とでは受ける印象が全く逆になる。しかし、以上の説明をご存じの方ならば誰しもが、「合理的」なグラフは図1ではなく図2であることをご理解いただける事だろう。

 つまり、日本は道路王国なんかでは全然無かったのだ。むしろ、欧米諸国に比べて「圧倒的」に道路が不足する「道路後進国」だったのだ。

 この様に冷静に考えれば、我が国は未だに、少なくとも道路の整備の点からいえば「欧米に追いつき追い越せ」の時代のまっただ中にいたのである。

 それにも関わらず我が国は、図1が与える様な「道路王国」の印象に引きずられ、高速道路を民営化し、ガソリン税を一般財源化し、欧米先進国と同程度に道路を整備する道を自らの手で塞いでしまったのである。



●借金の原因は「社会保障費」

 「政府の膨大な借金は公共事業のせいだ。だから、公共事業を削れば、いろんな政策のための財源は確保できるのだ」という言説も、メディア上で何度も繰り返されてきた。言うまでもなくこの論理こそ、民主党が掲げた「コンクリートから人へ」というスローガンや「事業仕分け」の基本的な考え方に他ならない。

 しかし、である。

 確かに、政府の国債の債務残高(要するに借金)は、過去十年間に三百五兆円が増加した。しかしその増分の大半は、公共事業とは全く無縁の、社会保障費等のための「特例国債」なのであって、その割合は実に八二%(二百五十一兆円)にも上るのである。

 つまり今や、政府の借金が増え続けている根本的な原因は、公共事業ではなく、社会保障が増え続けていることにあるのだ。

 無論そうなった背景には、公共事業費の過激な削減と社会保障費の凄まじい膨張とがある。

 図3をご覧いただきたい。この図は、国家予算における社会保障と公共事業の予算推移を示している。ご覧の様に、一九九八年当時、両者は共に十五兆円とほぼ同水準であった。しかしその後、公共事業費は削減され続けた一方で社会保障費は拡大され続けていった。そして二〇一〇年度には、社会保障費は三十兆円に迫るまでの水準になった一方、公共事業費はその二割程度の水準にまで落ち込んでいったのである。

 言うまでもなく、公共事業費がここまで過激に削減されたのだから、今やそれをいくら削減したところでさして大きな「財源」を確保することなど出来ない。例えば、二〇一〇年度の公共事業費五・八兆円という水準は、社会保障費でいうなら「過去の二カ年間の増加分」程度のものでしかない。このことは、仮に公共事業費を「ゼロ」にするという無茶苦茶な予算を組んだとしても、来年や再来年度にかけての社会保障費の「増加分」をまかなう程度の財源しか絞り出せない、ということを意味している。

 つまり、「国の膨大な借金は公共事業のせいだ。だから、公共事業を削れば、いろんな政策を行うために必要な財源は確保できるのだ」などという世論は、「明らかに間違った思いこみ」にしか過ぎなかったのである。

 それを思えば、「公共事業を削減して社会保障を増やす」という財政方針を意味する「コンクリートから人へ」なるスローガンを掲げた民主党は、完全なる「虚構」、さらに言うならある種の「ウソ」に基づいて、その方針を定めたのだという事が出来よう。

 そして多くの国民がそんなスローガンや仕分けを支持したのだから、多くの国民もまた、そんな「ウソ」に気づかずに、国家の命運を左右する程に重大な「政権交代」なる判断を下してしまったのだ。何とも笑うに笑えない愚かしい話であるが、これもまた事実としか言いようが無いのである。



●日本経済の凋落

 少なくともこの度の大震災前に、多くの国民が最も懸念していた問題は、経済の「不況」の問題であった。そして、その不況の正体が「デフレ」なるものであることも朧気に理解されているようであった。

 しかし多くの国民は「デフレ対策」として何が必要なのかが分からず途方に暮れているのが実態であったように思う。そんな漠とした不安があるからこそ「不況脱却のために構造改革が必要だ」と聞けば、何となく支持していたのが実態だろう。

 しかもこうした認識は、国民やマスメディアだけでなく、政治や政策に直接携わっている方々、さらには、経済学者、エコノミストの間でも、広く共有されている。実際、かつての小泉政権下でも、そして、現在の民主党政権下においても、「構造改革」の路線にそった政策が実際に採用され続けている。今まさに政府が進めようとしている事業仕分けや規制仕分けにしても、この発想に基づくものである。

 しかし、俄【にわか】に信じ難いかもしれないが、「構造改革」の路線はデフレ不況の現時点においてはデフレを加速し、不況をより深刻化する施策にしか過ぎないのである。

 頭をまっさらにして考えていただきたい。そもそもデフレは「供給に比べて需要が少ない」事が原因だ。

 一方で、構造改革を推進して生産効率が向上すれば「供給」がさらに増加する。その結果、需要と供給のギャップがより大きくなり、デフレは深刻化する。

 例えば、図4をご覧いただきたい。これは全世界の名目GDPの推移図だ。ご覧の様に、日本を除く諸外国の経済は成長し続けている。ところが日本は一九九五年以降、一切の成長が止まってしまっているばかりか「衰退」しているのだ。

 そもそもデフレは需要不足が原因なのだから、適切な金融政策の下での「大規模な公共投資」によって需要が拡大して初めて、デフレ脱却と経済成長がもたらされる。これこそニューディール政策と呼ばれるものなのだが、過去十五年以上もの間、日本は(小渕政権や麻生政権における積極財政を除き)それを本格的にやって来なかったのだ。それどころか、先にも示したように公共事業の政府予算はピークの頃の三分の一に落ち込むまでに削減し続けたのだ。

 その一方で、小泉政権、そして、現在の民主党政権が徹底的に進めようとしているのは、デフレギャップを増大させるような「構造改革路線」なのだ。そんな事をしておいてデフレが深刻化しない訳がない。

 あるいは図5をご覧いただきたい。これは、バブル崩壊以後の日本の一人あたりの名目GDPの国際順位の推移である。ご覧の様に、日本のGDP順位は、公共事業を大きく削減した橋本政権下で一旦低下したものの、大規模な公共投資を行った小渕政権で復活している。

 しかし、その後公共投資が再び削減され、公共事業関係費をピークの半分程度にまでに大幅に削減した小泉政権下で、日本のGDP順位は決定的に凋落したのだった。そしてその凋落は、小泉政権から安倍政権に変わってようやく「下げ止まる」まで毎年続き、かつて世界第二位だった地位が第二十三位にまで凋落してしまったのである。

 もうお分かり頂けよう。

 様々な学者や評論家と呼ばれる先生方の理論や理屈、メディアで喧伝される言説やイメージの類を全て綺麗さっぱりお忘れいただいて、「デフレとはそもそも需要不足なのだ」という基本中の基本一点だけを押さえれば、デフレ不況脱却のためには「大規模な公共投資=ニューディール政策」が不可欠であるという「当然の帰結」に、誰もがたどり着くはずなのである。

 実際、アメリカも中国も欧州各国も、リーマンショックによってデフレになりかかった時に皆、そうした「当然の帰結」にたどり着き、巨大な公共投資をやり遂げ、デフレ脱却を図ったのだ。

 それにも関わらず我が国は、過去十五年以にわたって「需要」の創出の要【かなめ】となるべき公共事業を三分の一にまで削減すると同時に、構造改革を推し進めて「供給」を増やし続けてきたのである。しかも現政権になってからは、その傾向にさらに拍車をかけているのが現状だ。

 これはほとんど、火事(=デフレ)を消そうとしている人が、消火のための水を減らし続けながら(=公共事業削減)、ガソリンを注入し続けている(=構造改革の推進)ようなものだ。こんな状況で、日本経済が凋落し続けないと考えるほうが、どうかしている───、我が国日本の経済政策は今、そんな最悪な状況にあったのである。



●デフレを促す「公共事業不要論」

 ところが、筆者のように「デフレ脱却のために大規模な公共事業を」といった主張をすれば、メディアでもインターネットでも、はたまた「学会」の中においても、たちまち様々な反論に晒されてしまう事となる。

 その主要な反論の一つが、「そんな事をすれば、また日本は借金まみれになって、破綻してしまうじゃないか」というものである。

 しかし、「借金の返済」のために必要な「税収」は、日本のGDPが拡大すれば増加する。例えば、もし仮に日本が九〇年代に、徹底的な公共投資を行う事に成功し、デフレを完全に脱却でき、それを通して世界と同程度の経済成長率を達成できていたとするなら、日本の名目GDPは千兆円を超えていた事となる(図4をご参照いただきたい)。

 あるいは、筆者の試算によれば、諸外国の成長率のたった「三分の一」程度であったとしても、我が国の名目GDPは七百兆円を超えていたであろう事が示されている。当然ながらそれだけのGDPがあれば、デフレ脱却のために使った「公共投資額」は、税収の範囲で早晩「回収」できる事となる。

 ただし、「デフレ脱却のために大規模な公共事業を」といった主張に対する最も根深い反論は「それでまた無駄なインフラをつくろうというのか?」という反論だった。つまり、こうした「公共事業不要論」が大規模な公共事業の推進を妨げ、結果として、デフレ脱却を阻み、デフレ不況をさらに深刻化させたのである。
●来るべき巨大地震に備える

 しかし、東北関東大震災の激甚なる被害を目の当たりにした今、多くの日本人は、堤防の必要性、そして、地震や津波に対しても壊れない橋や道路や鉄道やダム、そして、様々な施設の整備・建設の必要性をありありと理解しているのではないだろうか。

 そして何よりも、今求められているのは、助けを求めている人々を救出し、壊滅された東北太平洋沿岸の街々を復旧し、復興し、被災した人々の暮らしと生業を取り戻していくことである。とりわけ激甚なる被害を受けた岩手、宮城、福島の三県だけでも、その沿岸域には二百五十万人もの人々が暮らす街や村があったのだ。そして、津波が襲った五百キロにも及ぶ広域の沿岸部には、道路や鉄道、港やライフライン等の様々なインフラがあったのだが、それらの大半もまた、破壊されてしまった。

 だから今何よりも求められている公共事業は、そんな街や村、そして、それらをつなぐ様々なインフラの数々を蘇らせることなのだ。そのために、どれだけの財源が必要なのか、震災から三日しか経っていない現時点の情報では、十分に推計することは難しい。しかし、阪神淡路大震災をはじめとした過去の経験や、今回の大震災についてのAIRというリスクモデル専門の機関が発表した数値4を踏まえるなら、少なくとも三十兆円~七十兆円規模の財源が必要であることは、十分に予期されるところである。

 しかし、今、喫緊に求められている公共事業は、そうした復旧・復興事業だけではない。

 そもそも今回の巨大地震は、「北アメリカプレート」と「太平洋プレート」との境界面の破壊によって生じたものだ。そして今回の巨大地震によって、日本が乗っかる「太平洋プレート」における応力構造(つまり、力のかかり具合)そのものが大きく変化してしまった。その結果として、その翌日には震度6強を記録した「長野県北部・新潟県中越地方」が誘発されたのだ(無論、厳密な因果関係は未だ立証されていないが、両者の因果関係は専門家の常識から考えて、明らかである)。それを踏まえたとき、今、日本が最も畏れなければならない、もう一つの巨大地震があることを、我々はしっかりと認識しなければならない。

 「首都直下型地震」である。

 そもそも我が国の首都東京は、今回の東北関東大地震で、その応力構造(力のかかり具合)が抜本的に変わってしまった「太平洋プレート」に乗っかっている。そもそも、東京が直下型地震に(三十年以内に)見舞われる確率は、この度の大地震以前の時点ですら、「七十%」であった。しかし、今回の地震で、その確率は大きく変わっているはずである。低くなっているならそれは有り難いことだが、場合によっては、抜本的に高くなってしまっているのかもしれないのである。そんな事を考えれば、近い将来に首都が大地震に見舞われる事は十分に起こりうるのだと、我々は覚悟しなければならないのだ。

 そんな、いつ起こってもおかしくない「首都直下型地震」であるが、それが生じた場合の想定被害は、専門家の試算によれば、最悪で、実に「百十二兆円」にも上る事が予想されている。これは、今回の東北関東大震災のそれを上回るものだ。それほどまでに、世界有数の超巨大都市東京を直撃する地震の被害は、甚大なものとならざるを得ないのである。

 さらに、今回とほぼ同様のメカニズムで生ずると言われている巨大地震「東海・南海・東南海地震」を、ご存じだろうか。太平洋側の何百キロにもわたるプレートの断層を震源とする巨大地震が、三十年以内に生ずる確率が五〇%~八七%もあり、かつその想定被害が最悪で合計「八十一兆円」と試算されているのである。しかも、この地震についても、その発生確率が、この度の東北関東の巨大地震の発生によって上昇してしまった可能性があるのではないか、と指摘する専門家すらいるのである。

 そればかりではない。以上に述べた首都直下型地震と東海・南海・東南海地震が全て、連動する可能性すら指摘されているのだ。つまり我が国は、最悪で「二百兆円」という、人類がこれまでに一度も経験した事が無いような凄まじい被害を首都東京が被る「国家的危機」を抱えているのである。

 つまり、こんな国家的危機を見据えるなら、東北関東大震災の復旧・復興に全力を投入すると同時に、あらん限りの余力を持ってして、東京や太平洋ベルトの諸都市の道路や港湾、学校等の各種建築物の耐震性の向上、津波危険地帯における津波堤防の整備、そして「首都移転」も見据えた防災力向上を期した諸事業への大規模な公共投資を行うことが、是が非でも求められているのである。

 例えば、二十兆円程度の震災対策を行えば百兆円程度の被害を無くすことができるとの試算が報告されている。二十兆円といえば十年かけてやったとしても年間二兆円である。つまり、耐震のための公共事業を年間二兆円で十年間行えば、百兆円の被害を無くすことができる──そんな事が試算されているのである。

 にも関わらず、民主党政権下で実際に何が行われたか、皆様はご記憶であろうか。例えば、小中学校の耐震化については、麻生政権下の二〇〇七年に予定されていた補正予算額二千八百億円が、三分の一程度の一千億円にまで削減された。都市を支える運輸施設についても、同じく二〇〇七年の補正予算で首都高速道路、阪神高速道路を対象として一千二百十一億円をかけて耐震化することが予定されていたが、民主党政権成立直後に、取りやめとなってしまったのだ。

 つまり、我が国は今「コンクリートから人へ」という政策が国民人気を博し、十分な防災事業が展開できずじまいになってしまい、結果、何万、何十万もの「人」の命が天変地異の危機に晒される、という事態に陥っているのである。そしてこんな悲喜劇を政府と国民総ぐるみで演じている間に、我が国は、東北関東大震災の激甚なる被害を被る事態に陥ってしまったのである─────。

●インフラ・リニューアル

 世論やメディアや政治家がどのような事を口走ろうが、「防災」のための公共事業とは、かくも重要なものなのだ。

 しかし、公共事業は、「防災」のためだけに必要とされているのではない。「防災」とは「まさか」の時のための備えだが、わたしたちの「普段の暮らし」を支えるためにも、公共事業は無くてはならぬものなのである。

 そんな普段の暮らしを支えるための公共事業の中でも、特に、今強く、求められているものがある。

 「インフラ更新(リニューアル)」である。

 私たちの多くは今、「コンクリート」の橋や道路、上下水道管や堤防等の様々なインフラで形作られた「文明環境」の中で暮らしている。それらはいずれも、一九六〇年代の高度成長期の頃から数多くつくられはじめたのだが、その「コンクリート」が今、急激に老朽化し始めている。

 そもそもコンクリートには五十年程度の「寿命」があり、そのまま放置すれば「壊れて」しまう。一九六〇年から五十年後と言えば「二〇一〇年頃」、つまりちょうど今、我が国の多くのインフラが老朽化し、「いつ壊れてもおかしくない」という状態に入りつつあるのである。つまり、私たちの「文明環境」は今まさに、「廃墟」と化さんとしているのである。

 そんな中でもとりわけ我々の暮らしに直結する問題は「橋」だ。

 私たちが普段使っている橋の数多くが、今まさに、いつ「落ちて」もおかしくないくらいに、急激に老朽化しつつある。実際、老朽化のために通れなくなっている橋は全国で約千橋にものぼり、その内のいくつかが実際に「落ちて」いる。

 例えば、長野県の新菅橋は、橋が架けられてから二十四年目に、橋ゲタを支えていた銅線が破断したことによって落ちてしまった。同じようにして、岐阜県の島田橋は二十七年目に落橋している。また沖縄県の辺野喜橋は、風雨と潮風にさらされて銅材が腐食し、二十八年目に崩落している。これら以外にも、いくつもの「落橋」の事例が存在する。

 ただし、これらの落橋の事例では幸いにも、死者が出るような大きな被害は出ていない。言うまでもなく、橋が落ちた時に誰も利用していなかったからである。しかし、もし誰かが利用していたなら、死者が出るような被害が生じていた危険性は十分にあった。

 それにも関わらず我が国は今、公共事業費の削減のために「橋の点検」すら十分にできなくなっている。特に、予算の厳しい市町村ではほとんど点検ができず、彼らが管理する十五m以上の約十三万橋のうちの「約七割」もが未点検なのだ。

 実は、こうした「深刻な状況」を既に経験し、克服してきた国がある。

 アメリカだ。

 アメリカは大量の橋を一九三〇年前後につくりはじめ、それから五十年経過した「一九八〇年代」前後にその老朽化が激しくなった。そしてシルバー橋やマイアナス橋といった大規模な橋が落ち、多くの人命が失われた。当時それは大きな社会問題となり、それを扱った書籍「アメリカにおける廃墟」(Ruins in America)がベストセラーとなった。

 米国はこうした世論を背景に、ガソリン税を二倍以上に切り上げ、インフラの維持・更新に徹底的に取り組んだ。そしてその甲斐あって彼らのインフラはどうにか持ちこたえ、今の繁栄を維持する事に成功したのである。

 果たして日本は米国と同様に「文明環境の廃墟化」を避けることができるのだろうか?

 例えば筆者の試算では、橋のリニューアルだけで、総額「八十兆円」程度の財源が必要だ。これを四十年かけて行うとしても年間二兆円程度となる。そして言うまでもなく、インフラは橋だけではない。水道管やダム、堤防や港湾といったあらゆるインフラの「リニューアル」も含めて考えれば、それらを年間五~六兆円程度の政府の公共事業費では到底まかない切れない事は、火を見るよりも明らかだ。

 つまり、今の財政方針のままでは、我が国は「文明環境の廃墟化」を止めることなどできやしないのである。

●「亡国の危機」を回避するために

 このように、単なるイメージや先入観ではなく「客観的なデータ」に基づくなら、日本の道路の水準は先進国中最低水準だし、インフラのリニューアルや防災のために大規模な公共投資が必要とされていることは明らかなのである。

 本稿では十分に紹介できなかったが、日本の港湾整備の遅れのために日本経済は大打撃を受けかねない状況にあるし、都市の活力増進のために各都市の環状道路や都市内公共交通の整備は急務である。そして大洪水を避けるための治水事業もまた、日本各地で求められている。

 例えば民主党の前原誠司元国交大臣が中止を明言した八ツ場ダム建設にしても、関東各都県の水不足を一気に解消するための新しい「水がめ」として、そして、首都圏を襲う最悪七十兆円にも及ぶと言われている超巨大な洪水被害を食い止めるための「一手」として重大な意義があったのだ(詳細は、拙著1を参照願いたい)。

 しかも、そんな必要な公共事業を、デフレ下にある今こそ大規模に推し進めることができるなら、米国や中国がリーマンショックから立ち直ったように、我が国の経済もまた再び活力を取り戻し、「復活」を果たすことができるに違いないのである。

 これ程までに公共事業の必要性が明らかであるにも関わらず、未だに我が国は公共事業を大規模に展開することができずにいる。それどころか、政府は未だにここまで削減され続けた公共事業の予算をさらに削減しようとしているのだ(平成二十三年度予算が、本稿執筆時点の今、まさに国会で審議されているが、政府予算案における公共事業関係費は、昨年度からさらに大きく削減されようとしている)。

 そんな公共事業削減路線を推進した結果、我が国の「文明環境」の廃墟化は徐々に進行し、デフレ不況はさらに深刻化し、失業者は増え続け、日本経済はさらに凋落し始めているのだ。そしてこうした「弱り目」に「祟【たた】り目」といわんばかりに、まさに今、我々に東北関東大震災という巨大地震が襲いかかってきてしまったのだ。しかも、その巨大地震は、首都や西日本を直撃する激甚な巨大地震の「前触れ」であるかもしれないのだ。もしそんな巨大地震が現実のものとなれば、文字通り我が国は「亡国」の危機に直面することになるだろう。

 二千年の長きにわたって存続してきた我が国日本であるが、「コンクリートから人へ」なる耳あたりの良い、生ぬるい言葉を吐き続けながら公共事業を悪玉に仕立て上げ続ける政治を続けていては、早晩、その歴史そのものが終焉を迎える事は避け得ないのだ。
 そもそも長い日本史や世界史に登場してきた偉大なる全ての政治家は皆、「インフラ」の問題を政治の中心に据え続けてきたのだ。日本史で言うなら戦国時代の尾張の国、世界史で言うなら古くは四大文明やローマ帝国から現代のアメリカに至るまで、インフラを制するものが国家間の競争を悉く【ことごと】勝ち抜いてきたのである。それを思えば、国家間の競争がますます激化するであろう21世紀において我が国が「公共事業の削減路線」を継続する限り、日本が「亡国」の危機を免れ得るとは考えられない。それを知りながら何の手だてもせずにいるとするなら、それはもう既に「国家の自殺」に等しいのだ。

 「コンクリートから人へ」で国亡ぶ───、我々は今一度、この言葉の意味を深くかみしめなければならない。そしてそんな「亡国の危機」、あるいは「国家的自殺の危機」を全力で回避するために、被災に苦しむ同胞達と我々日本人全員に希望の光をもたらし得る大規模な震災復旧・復興事業をはじめとした、様々な公共事業を大胆に展開することが、今強く求められているのである───現代の日本人が、そんな「時代の要請」に応えられる底力を未だ持ち合わせていることを、強く祈念したい。

脚注


1藤井聡:公共事業が日本を救う、文春新書、2010。

2同書 178ページ

3同書 178ページ

4AIR Worldwide Releases Preliminary Estimate of Insured Losses for the Mw9.1 Tohoku Earthquakeで、保険対象となっている資産の損失総額が1・2兆円~2・8兆円程度であることが報告されており、かつ、保険対象資産は全資産の4%前後であることを加味して算定。

http://trans.kuciv.kyoto-u.ac.jp/tba/index.php/b4/job/162-pragmatism.html




関連記事
(ご覧いただき、ありがとうございます!)
藤井聡教授イベント


講演「山陰新幹線の早期実現と北陸新幹線」
平成28年7月30日鳥取
 


関西ローカルの夕方の報道番組
夕方LIVEワンダー
(午後3時50分~午後7時)
毎週金曜日コメンテーターにて登壇予定 


藤井聡教授書籍
「プライマリー・バランス亡国論」
その7つの理由


「プライマリー・バランス亡国論」
三橋貴明氏の紹介文


発売日2016年5月

国土学
書評

発売日2015年10月

デモクラシーの毒
中野剛志書評

発売日2015年7月

モビリティをマネジメントする
参考



超インフラ論

発売日2015年04月

<凡庸>という悪魔
書評①
書評②
書評③

発売日2014年07月

築土構木の思想
参考動画


発売日2014年06月

グローバリズムが世界を滅ぼす

発売日2014年05月


政(まつりごと)の哲学
「はじめに」より

発売日2014年01月

大衆社会の処方箋
柴山桂太氏書評
参考動画
参考記事
参考記事

発売日2013年12月

巨大地震Xデー
あとがき


発売日2013年08月

新幹線とナショナリズム
参考記事
はじめに&目次

発売日2013年06月

強靭化の思想
強い国日本を目指して
正論インタビュー
参考記事
簡単な紹介
参考記事

発売日2013年06月

レジリエンス・ジャパン
日本強靭化構想

読者レビュー


発売日2013年06月

経済レジリエンス宣言
はしがき


維新・改革の正体
-日本をダメにした真犯人を捜せ-

中野剛志氏書評
参考記事


日本破滅論
~おわりに~


コンプライアンスが日本を潰す
新自由主義との攻防

“はじめに”と“おわりに”
読者からレビュー


プラグマティズムの作法
日本が救われる有効シナリオ
トークイベント動画
中野剛志氏推薦文


救国のレジリエンス
動画「救国のレジリエンスとは何か?」
富国強靭


列島強靭化論
佐伯啓思氏書評


公共事業が日本を救う
中野剛志氏書評
今こそ、公共事業で巨大地震に立ち向かうべし
著者が語る
山梨のトンネル崩落事故
デフレの今こそ大規模な公共事業を


正々堂々と
「公共事業の雇用創出効果」を論ぜよ 
~人のためにこそコンクリートを~

西部邁氏寄稿『藤井君の思慮ある勇気』



なぜ正直者は得をするのか
参考記事


文明の宿命

参考記事


土木計画学
参考記事


社会的ジレンマの処方箋


代表的日本人
内村鑑三著

藤井聡教授の愛読書

バック

こんにちは(*^^*)


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。