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【藤井聡】青木泰樹氏「経済論理の濫用による政策論議の歪みについて 」

藤井聡教授FBよりシェア

この週末、京大レジリエンス研究ユニットにて、佐伯先生、中野さん、柴山さん達と経済学の研究会を行いました。講師として、帝京短期大学の青木泰樹教授をお招きし、

  『経済論理の濫用による政策論議の歪みについて
   ─財政政策と国債問題を中心として─』
と題したご講話をいただきました。事前に書籍『経済学とは何だろうか~現実との対話』というご本(下記ご参照ください)を拝見し、非常に有用な経済理論と感じておりましたが、改めてお話伺い、そのすばらしさを改めて感じいった次第です。

経済学とは何だろうか 現実との対話
青木泰樹

主なポイントは....

①現実を説明でき、かつ、政策提言可能な実践的な経済モデルを作る。
②その結果、貨幣がストックされているのは「金融市場」と「産業市場」の二種類があると考え、前者内の貨幣がアクティブマネー、後者内の貨幣がノン・アクティブマネーである、と考える。
③アクティブマネーによって「物価」「為替」が決まると考える。

といったあたりです。①なんて「工学」では当たり前すぎてなぜそんなのがポイントになるのか。。。という位に思いますが、それくらい、現状の「経済学」や「リフレ派」と呼ばれるようなエコノミストの方々が病んでいる....というお話でした(笑)。また、②③は実務的実践的には「肌で感じる当たり前の感覚」なのですが、ネット上メディア上の「評論家」と呼ばれる方、とりわけリフレ派の人達の主張にはどうしてもご理解いただけないところ......であります。が、それを(動学的な)経済理論体系の中に包摂されようとしておられます。

経済学、もとい「経済と経済学の双方」(笑)にご関心の方は、まずは一度、資料や書籍等、ご覧になってみてください。



経済論理の濫用による政策論議の歪みについて
─ 財政政策と国債問題を中心として ─
平成24年7月7日
青木 泰樹

1.経済論議は何故かみ合わないのか:主流派経済理論と現実のミス・マッチ
 二十年ちかくに渡って日本経済の長期的低迷という現実に直面しながら、未だに経済学者、評論家および官庁エコノミストといった経済の専門家の間で、その原因および解決策に関して意見の一致は見られない。経済学の門外漢のみならず、このことを不思議に思わない人はいないであろう。何故、経済学という同一の学問的基盤に立脚していながら、結論がかくも異なるのかと。しかし、同一の現象に対して複数の解釈が存在することこそ、経済学の学問的性格を端的に表している。すなわち、経済学は一枚岩的な体系ではなく、経済諸学説の集合体であることを示しているのである。
 しかし、経済学者の中でもこの経済学の多様性を意識している者は少ない。それどころか経済学はひとつであると思い込んでいる学者のほうが多いのが現状であろう*。それゆえ、彼等は自らの主張の論拠となる学説が何であるかを表明することなく、「経済学によれば」とか「経済学を知る者にとっては自明であるが」といった枕詞を自説の前に添えてしまう。自説の立脚する学説が経済学の部分理論であるにも関わらず、あたかも自分が経済学全体の代表者の如く振る舞ってしまう。
 経済論議に参加する者同士が、互いに部分理論しか引っ提げていないにも関わらず、「我こそは経済学の論理にしたがって議論をしているのだ」と言い合っているわけであるから議論がかみ合う筈はない。互いに異なる土俵で独り相撲を取っているようなものである。こうした経済論議の齟齬を避けるためには、先ず経済学が多様な諸学説の集合体であることを認識し、次に各論者たちの依拠する学説を整理しておく必要がある。注意すべきは、各学説は前提条件を受け容れるならば、真偽の観点から優劣をつけられるものではないことである。それらは分析対象に応じて、すなわち問題設定ごとに適否の観点から論じられるにすぎない。例えて言えば、剃刀は髭をあたるには適するが、大木を切り倒すには不向きであるように。
 経済学説の二大潮流としては、現実分析に重きを置くケインズ経済学と論理的厳密性を追求する新古典派経済学及びそれに連なる諸学説がある。前者は「需要側(重視)の経済学」、後者は「供給側(重視)の経済学」と通常呼ばれている。両者の相違は、所得決定に際して需要側と供給側のどちらを主因と考えるかにある。このことは、例えばハンバーガー店で働いている人に、「あなたの所得はハンバーガーを買ってくれる人がいるから得られるのですか、それともあなたがハンバーガーを作っているから得られるのですか」と問うている状況を考えれば容易に理解できよう。前者の立場が需要重視であり、後者のそれが供給重視である。無論、一つ仮定を付け加えれば両者の立場は一致する。すなわち、「作ったものが全て売れる」という仮定である。この仮定は「セー法則」と呼ばれている。供給側の経済学は、セー法則を前提として成立しているために需要側の分析を無視し得ると想定しているのに対して、需要側の経済学は「セー法則は(物々交換経済において成り立つに過ぎず)現実経済では成立しない」と考えているのである。
 経済学は多様なる経済諸学説の集合体であり、諸学説にはそれぞれの学問的守備範囲がある。現実分析に向く学説もあれば、論理的厳密性を追求するのに向く学説もある。前者の代表が需要側の経済学であり、後者のそれが供給側の経済学である**。とすれば、現実の経済問題を論議するときのベースは、需要側の経済学であろうことは素人目にも容易に推察できる。しかし、驚くべきことに現実は逆なのである。現行の経済論議のベースは供給側の経済学なのである。何故このような事態が生じたのであろうか。それには、ここ20~30年間の経済学界における主流派経済理論の交替という純粋に学問的な事情が介在しているのである。
 端的に言えば、需要側の経済学すなわちケインズ経済学は経済学界における敗者となり、供給側の経済学が勝者となったことである。もちろん、ここで言う「勝ち負け」とは、経済学者の多数が支持するか否かということであり、論理的に最終決着がついたか否かという意味ではない。1970年代以降、ケインズ経済学は実証面、理論面および現実面から批判の十字砲火にさらされた。スタグフレーションを説明することが出来ないこと、裁量的財政政策への財政面からの危惧、乗数効果が低下したこと等々である。しかし、経済学者達にとって決定的だったのは、ロバート・ルーカスによる「ケインズ経済学はミクロ的基礎づけがなされていない」という批判であった。いわゆる「ルーカス批判」である。それは、マクロ経済はミクロ主体から成り立っているのであるから、ミクロ主体の行動原理からマクロ的状況を説明できないケインズ経済学は経済理論に値しないという痛烈な批判であった(但しここでのミクロ主体の行動原理とは同質的主体の合理的行動原理を指す)。ルーカス批判にほとんどの経済学者達は反論できず、ほどなくして経済学の主流派の座は合理的ミクロ主体の行動原理から成り立つ供給側の経済学へ譲られることになった。
 「ケインズは古い」、「ケインズはダメだ」、「ケインズは死んだ」といった意味のない論説や風評が経営者やサラリーマンの言の葉にまで上るようになった頃には、既に経済学者の多くもケインズ経済学から離れてしまっていた。捨て去ってしまったと言っても良いかもしれない。彼等の掌中に残されたものは供給側の経済学しかない。それを用いて現実経済を分析するしかなくなった。剃刀で大木を切り倒す羽目に陥った。勝者の経済理論となった供給側の経済学、すなわち論理的厳密性を追求する経済論理を用いて現実経済を分析するというミス・マッチを犯す経済専門家の増加が、経済論議を歪めている。これは明らかに供給側の経済学(いわば純粋理論)の分析対象への適用の誤りであり、学問的守備範囲の逸脱に他ならない。ここではそれを「経済論理の濫用」と規定する次に、それが如何に経済論議を歪め、現実経済に悪影響を及ぼしているかを具体的に論じてゆく。

2.デフレの原因をめぐる三見解
 「デフレは継続的な物価水準の下落である」という現象面からの説明に関して異論の余地はない。物価が下落してゆくのであるから、表面的に見れば、デフレは貨幣的現象に他ならない。ここまでは経済理論上の対立は存在しない。しかし、「何故物価が趨勢的に下落してゆくのか」というデフレの原因を解明しようとした途端に対立が表面化する。デフレの原因の説明は、正しく需要側の経済観と供給側の経済観の対立を最もよく表している。経済学には、貨幣的要因(カネの動き)と実物的要因(モノの動き)との関係を規定する相対立する二つの基本概念が存在する。ひとつは両要因が全く無関係であるとする「貨幣の中立性」の概念、他は明確な関係が存在するとする「貨幣の非中立性」の概念である。現代の主流派経済学である供給側の経済学は前者の立場、ケインズ経済学は後者の立場である。
 経済学説に基づけば、デフレの原因について三つの見解が存在する。他方、経済学説に立脚することなく現況の経済構造に関する統計データを用いてデフレを説明する見解もある。例えば、デフレの原因を円高によって輸入品価格が継続的に下落した結果であるとか、グローバル化による工業製品価格の低落傾向に引きずられたものであるといった見解である。確かに、そうした見解の中には興味深いファクト・ファインディングもあるが、二つの時系列データの特定期間における相関を強調するだけでは説得力があるとは言えない。なぜなら、そうした見解は部分に関するものであって、その部分が経済の全体にどのように位置付けられ、如何に関連しているのかに関する理屈(理論)が欠如しているからである。例えば、そうした論者がGDPの決定を如何に考えているかもわからないのである。いわば理論無き事実列挙(指摘)といえる。デフレの原因だけを構造的要因によって説明する一方で、他のマクロ現象を主流派経済学の立場から論ずる学者を信頼できようか。少なくとも、現実と理論の関係を如何に規定しているのかに関する説明がなければ、不可能であろう。したがって、ここでは経済学説に基づく三見解について論ずることにする。
 先ず、需要側の経済学に基づくデフレの原因説である。いわゆるケインズ経済学や新古典派総合に慣れ親しんだ者にとっては、「デフレ」と非自発的失業の存在する「不況」は同義語であった。かつてデフレの原因は実体経済における総需要不足の貨幣的表現であると誰もが信じていた。「需要不足でモノが売れない状態が継続するから、価格が下がり続ける」とするのが需要側の経済学からの説明である。それゆえデフレを克服するためには総需要を増加させる方策、いわゆる拡張的財政政策をとるべきであると考えられてきた。
 しかし、経済学界においてケインズ経済学が衰退するにつれて、事態は一変した。供給側の経済学が勢力を増すにつれ、「デフレ」と「不況」は別の概念であるとの見解が徐々に支配的になったのである。すなわち、供給側の経済学は貨幣の中立性に基づく見解であるため、貨幣現象であるデフレと実物経済における生産水準はそれぞれ独立に決定される論理構造になっている。したがって、デフレは実体経済の規模とは無縁の純粋に貨幣的な現象として捉えられることになる。経済学の主流派の交替によって、いまや「デフレ」、「不況」および「デフレ不況」はそれぞれ別個の経済状況を表す概念となった。
 ただし、「デフレギャップ」の概念だけは、「需給ギャップ」を示すケインズ経済学の残滓として現代においても生き残っている。しかし、それも風前の灯かもしれない。デフレギャップの代わりに「GDPギャップ」の用語が多用されてきたからである。現在のところ、その用語を使うエコノミストやマスコミ人に混乱が見られるが、本来、GDPギャップはデフレギャップを供給側の経済学で塗り替える概念と言える。すなわち現実GDPを決定するものが総需要であるとするケインズ経済学の論理を否定するならば、GDPギャップは純粋に供給側の問題に帰着されるのである。
 さて、供給側の経済学に基づくデフレの原因説も概観しておこう。それは極端な見解と多少穏当な見解に分かれる。極端な見解の代表は、新古典派経済学の現代版である「新しい古典派」である。その論理において貨幣は完全なるヴェールであって実物的要因に全く影響を及ぼさない。その場合、デフレもインフレも実体経済(産出水準)にとって無関係であるから、経済問題にすらならない。デフレであろうがインフレであろうがどうでもよいのである。あえて言えば、デフレは単に物財に対する相対的な貨幣量の収縮によるものだとする見解である。他方、多少穏当な見解は、マネタリズムおよびニューケインジアンのそれである。両者はともに長期的には貨幣の中立性が実現するとしているが、短期的には情報ラグ、情報の不完全性等によって貨幣が非中立的になる場合を想定している。その場合、貨幣的要因の変動が実物的要因に影響を及ぼす経路が理論上可能になる。いわゆる金融政策が有効となる可能性である。
 しかし、極端な見解にせよ穏当な見解にせよ、経済社会を構成する同質的なミクロ主体が主体的均衡(制約条件付きか否かは別として最も満足している状況)に達している以上、政府が民間経済に介入する明確な理屈は存在しない。言うまでもないことであるが、供給側の経済学に立脚する限り、経済は常に均衡状態にあり非自発的失業者はおろか職についていない人は皆無であるから(ミクロ主体は同質であるとの仮定より経済内に失業者と就業者は併存できない)、経済問題自体存在しないのである。供給側の経済学には理論的に不況の存在余地はない。セー法則に立脚している限り、経済に需要不足はあり得ないのである。それが純粋理論の帰結なのである。
 供給側の経済学が主流派経済学としての地歩を固めるにつれ、経済学者の間で「非自発的失業」や「需要不足に基づく不況」を堂々と主張することは憚られることとなった。ひとたびその言葉を発するなら、自らを異端の立場に追いやることになる。「ミクロ的基礎付けも考えない理論経済学者にあるまじき者」とのレッテルを貼られる恐れもある。しかし、ルーカス批判の意味するミクロ的基礎付けとは、ミクロ主体を同質的な合理的主体と想定する仮説にすぎない。それはミクロ的基礎付けの論理全般を指すものではなく、部分的なそれにすぎない。異質的なミクロ主体の活動を許容するミクロ的基礎付けの論理も当然あり得るが、ルーカスの主張はそこまでカバーするものではないのである。しかし、経済学者の多くはそれがわからず、主流派から排除される恐怖心のほうが勝ったのである。

3.不況の原因と経済政策
 供給側の経済学に不況は存在しない。しかし、現実には不況は存在する。経済理論の中で不況や非自発的失業の概念を消し去ることはできても、現実経済からそれらを消し去ることは如何に高名なる経済学者を以てしても不可能である。供給側の論理に基づいて現実の経済問題に対処せざるを得なくなった経済学者のとったひとつの立場が「構造改革論」であった。それは現実の不況を「需要不足の状態」と認識するのではなく、「現在の経済状況は均衡(需給一致)しているが、改善の余地のある状態」と再解釈することから始まる。すなわち経済内には制度的に保護された非効率な分野が存在し、そこから効率的な分野へ諸資源(労働や資本)を移動させることによって経済は拡張しうるという見解である。諸規制や制度を改変するという構造改革は不況を供給側の問題と捉え、その解決策を提示するものであった。
 しかし、そもそも供給側の経済学を用いて不況状況一それを如何に表現するかは別として一を分析し、その対応策を練ることなど鼻から論理的に不可能なのである。セー法則に立脚している限り、総需要不足を想定することはできない。GDPギャップにせよ、その拡大は技術進歩率が減速したか自発的失業が増加した─多くの労働者が同時にバカンスをとる選好を強めた─といった供給側の要因によって説明せざるを得ない。もちろん、拡張的財政政策の余地など一切無いのである。
 他方、主流派経済学の立場に身を置きつつ、もしくはそれに正面から対立することなく現実経済をも分析しようとする一群の経済学者やエコノミストもいる。彼等の学問的立ち位置はかなり微妙で、わかりにくい。そうした集団の中に「現在はデフレであり、デフレは経済にとって悪しきことである」と認識し金融緩和政策によって景気浮揚を図るべきだと考えている人達がいる。ただし、彼等は「デフレ=悪」であるが、「デフレ=不況」とは考えていない。にもかかわらず景気浮揚(不況からの脱却)の必要性を主張していることが、彼等の論理的基盤を益々わかりにくくさせている。ケインズ経済学もしくは景気変動を許容する枠組みを持つ経済学説(ただし実物的景気循環論を除く)以外に不況を想定することはできないからである。彼等は、デフレからインフレに至るまでの間の通貨の再膨張を意味するリフレーションという言葉にちなんで、一般に「リフレ派」と呼ばれている。おそらくリフレ派の多くは、言葉の適否は別として「マネタリズム亜流」と考えられよう。
 リフレ派の主張の中心は、「インフレ・ターゲット論」である。すなわち、中央銀行がデフレ脱却のために「目標とするインフレ率(おおよそ2%)」を達成するまでマネーストックを増加させ続ける金融緩和政策である。その論拠は「フィッシャー方程式」にあり、それは「実質金利=名目金利-期待インフレ率」として示される。インフレ・ターゲット論の理論的前提は、次の三点である。
(1)外生的貨幣供給論に立脚し、中央銀行はベースマネーの操作によりマネーストックをコントロール可能とする。
(2)貨幣の非中立性(貨幣が中立的だと期待インフレ率と名目金利は連動し実質金利を動かすことは不可能となる)。しかし、この前提は言明されない(隠されている)。
(3)実質金利と民間投資との間に明確な関係(投資スケデュール)が存在すること。
 こうした前提の下、中央銀行のインフレ目標の設定が民間経済人の期待を変化させ、投資増をもたらす経路を想定しているわけである。
 しかし、インフレ・ターゲット論には致命的な欠陥が二つある。ひとつは、マネタリズムと共通の欠陥である「貨幣の注入経路」が欠如していることである。中央銀行が民間経済へ貨幣を注入する経路を欠いているために「ヘリコプターマネーの仮定(すなわちヘリコプターで現金をばらまくこと)」をとっている。しかし、カネをばらまいただけで景気が浮揚する論拠が明確ではない。後に見るように、カネをばらまいても金融的流通内にカネが滞留する限り所得の増加は起きない。産業的流通内でカネが使われて初めて景気は浮揚するのである。第二に、実質金利の低下が投資増に結びつく経路を考えているが、先の見えない状態である不況期に若干の金利低下が大幅な投資増に結びつくとは考えにくい。不況期にリスクをとれるのは中長期的視点から経済運営を考えられる政府だけなのである。
 いずれにせよ、インフレ・ターゲット論は、供給側の経済学にマネタリズムの主張を重ね合わせた構造をとっているがゆえに問題が残る。すっきりしない。金融政策に依存するだけで、財政政策の発動に論究できないからである。したがって、そうした論者は常に奥歯に物が挟まったような言い方しかしない。自らが既にケインズ経済学を捨て去ってしまっているから、財政発動の必要性を言えば論理矛盾に陥ってしまうからである。
もちろん、主流派経済学者から放逐される危険性も増す。ただし、需要側の立場を取り入れ、すなわち拡張的財政政策との合わせ技(ポリシー・ミックス)を使えば利点が発揮される可能性がある。それは後に論じよう。

4.転換点としてのリーマン・ショック
 日本経済の長期的低迷は、総需要管理政策を軽視する供給側の経済学に基づく経済運営が長らく行われてきたことに起因する一種の「人災」である。さらに供給側の経済学の帰結にミルトン・フリードマンの主張する新自由主義思想が吹き込まれた結果、いわゆる「市場原理主義」が誕生した。「民の拡大、官の縮小」をスローガンにするこのイデオロギーは、財界をはじめとする特定の社会的勢力にとって福音となった。経済効率を追求することが、同時に経済的自由を達成することと同義となったからである。経営者は大手を振って効率性を追求し、無駄(例えば労働者の権利)を排除する錦の御旗を得た。グローバル化の進行という時代背景が、市場原理主義の追い風となり、それは瞬く間に社会の各層に浸透し「時代の社会思潮(5年から10年位の短期間ではあるが社会を支配する価値観)」と化した。それは、ありとあらゆる「公的なるもの」、すなわち公務員、公共事業および各種規制等に対する批判を醸造する思想的根源となったのである。特に社会資本整備のための公共投資はやり玉に挙げられ、その規模は縮小の一途をたどってきた。
 しかし、2008年9月に生じた「リーマン・ショック」は供給側の経済学の根底を吹き飛ばした。あらゆる人知と情報が集積し価格形成がおこなわれる「効率的市場」であるはずの金融市場で、起きるはずのない大暴落が生じたからである。主流派経済学者はそれを説明できず、「100年に一度」の稀なケースであると逃げを打つしかなかった。リーマン・ショックから始発した世界同時不況をある程度で食い止め、小康状態にさせたのは、米国や中国をはじめとする主要諸国が協調してケインズ政策、すなわち需要拡大政策を大規模に行ったためである。各国の首脳が、純粋理論と現実を混同するような愚か者でなかったことが世界を救ったのである。もしも、為すべきことをせず、市場に全てを委ねていたら世界経済はどれほど収縮したかわからない。リーマン・ショック以降、供給側の経済学は現実経済からの厳しい批判を受けることになった。現在は、現実分析の論理として供給側の経済学に替わる経済論理が登場するまでの過渡期と学問的には位置づけられる。
 需要側の経済学に依拠する景気浮揚のための拡張的財政政策の発動にとって、「前門の狼」ともいえる経済学界を支配していた供給側の経済学の信頼性は低下した。それが現実分析に向かない論理であることが徐々に明らかになってきた。逆に、リーマン・ショック以降、拡張的財政政策の役割が評価されつつあると言える。しかし、日本においてケインズ政策の発動に理解を得ることは容易ではない。「後門の虎」として膨大な国債残高の存在が立ち塞がっているからである。拡張的財政政策の財源として国債の新規発行がおこなわれた場合、財政破綻に陥るのではないかという恐怖が日本経済を覆っている。そうした危惧を払拭する理屈がなければ、景気浮揚は図れない。そうした観点から、次に国債問題について論ずる。

5.国債問題の誤解と正当な解釈
 日本の国債残高は平成24年度末で700兆円余りと見込まれている。日本のGDPが500兆円弱であるから、世界的に見てもかなりの高水準であると見られている。財務省は国債が「国の借金」であることを喧伝し、その残高の急増による財政悪化に対して警鐘を鳴らしている。経済学者(特に主流派財政学者)、経済評論家、エコノミストおよびジャーナリストの多くも財務省の見解に同調し、国債残高の累増による財政破綻の危険性や次世代負担の問題を声高に叫んでいる。しかし、十年以上も前から彼等が「日本は財政破綻寸前である」と言っているにもかかわらず、国債は順調に(好調にと言ったほうが適切であるかもしれない)消化され、財政破綻の兆しも見えない。これは明らかに財務省をはじめ主流派経済学者の依拠する論理によって、現実経済を説明することが出来ないことの証左である。
 ここでは国債問題に関する誤解を解き、拡張的財政政策の足枷を外すことの必要性を論じる。そのためには、先ず、国債の機能を貨幣循環の図式の中で明らかにしなければならない。貨幣量はストック量であるため、経済学では一般に(供給側および需要側の経済学を問わず)、貨幣量を「フローの局面(貨幣循環)」で扱うことは滅多にない。大抵はストック市場である貨幣市場を想定し(ただし、「新しい古典派」には貨幣は一切登場しない)、そこで民間の貨幣需要と政府による貨幣供給の関係から名目金利が決定されるとする「外生的貨幣供給論」が展開される。信用量を重視するポスト・ケインズ派では、金利が先決され貨幣供給量が民需に柔軟に対応するという「内生的貨幣供給論」の立場がとられる。いずれの見解に立脚するにせよ、「経済内に貨幣量のプールがひとつある」と考えることに変わりはない。
 しかし、この見解は現実経済の貨幣現象を分析する際に誤解を生む危険性がある。経済取引には財サービスの取引である「経常取引」と資本貸借である「金融(資本)取引」がある。前者は所得を発生させる取引であるのに対し、後者は単なる資金移動にすぎず所得を生むものではない。経常取引に使用されるカネ(活動貨幣)の量的変動が直接的に物価変動をもたらし、金融取引に使用されるカネ(不活動貨幣)のそれが直接的に金融資産価格の変動をもたらすことは言うまでもない。またケインズにならい経常取引に使われるカネを「産業的流通内の貨幣」、金融取引に使われるカネを「金融的流通内の貨幣」とする。伝統的な経済内に貨幣量のプールがひとつあるという見解では、こうした経済内の貨幣流通は無視され、活動貨幣も不活動貨幣も区別されることはない。特に、政府による貨幣注入経路を考慮できないことは問題であろう。
 筆者は、「経済内に二つの貨幣量のプール」─産業的流通内の貨幣量のプールと金融的流通内の貨幣量のプール─を想定し、両者の交渉経路を考察する貨幣論の枠組みが必要であると考え、そのための試論(動態的貨幣論)を提示した。結論を言えば、二つのプール間の貨幣流通は景気状況に依存し、特に不況期においては金融的流通内に貨幣が滞留する可能性が大きいことである。もちろん、そうした理論的基盤にまで立ち入らずに、現実的な貨幣流通を認識するだけでも、国債の機能に関する以下の議論は理解されると思われる。
 さて、国民経済は政府部門と民間経済から構成され、民間経済には二つの貨幣量のプールがある。活動貨幣量と不活動貨幣量のプールである。貯蓄は前者から後者への貨幣流通であり、実物投資のための銀行融資は逆である。この図式の中に国債を導入すれば、その機能はおのずから明らかとなる。すなわち、国債発行が市中消化される場合、それは民間経済の不活動貨幣を活動貨幣へと変換することを意味する。言い換えれば、民間経済に滞留するカネ(投資的待機資金)を「政府経由」で所得化するカネへと変えることである。通常、その役割を負うのは金融仲介機関による融資である。しかし、先の見えない不況期においては、企業側はリスクをおそれ新規の資金調達に二の足を踏み、他方融資側でも信用リスクの高まりから資金の貸し渋り、貸し剥しが発生する。すなわち、金融的流通内のカネの産業的流通内への流れが堰き止められてしまう。こうした経済状況に際してリスクをとれるのは政府だけである。政府は国債発行で得た資金を政府内に留めるわけではなく、公共事業や一般歳出の経費として「民間経済で使う(活動貨幣量を増やす)」のである。それによって需要(所得)を創出するのである。不況期に政府
による積極的な財政政策が望まれる所以である。
 国債発行の是非は、国債を発行しなかった場合に比べて、民間経済に悪影響が出るか否かにかかっている。次にそのことを説明しておく。政府が新規に国債を発行したところで、市中消化であれば民間経済内の貨幣量に変化はない。不活動貨幣量は減るが、そ
の分活動貨幣量が増えるからである。国債発行をしなかった場合に比べて、国債が民間経済に蓄積(保有)されるだけである。日本のような世界一の対外純資産を保有する国にとって、市中消化された国債は「政府の借金」であると同時に「民間の金融資産」でもある。国債残高が高水準にあるということは民間経済規模が大きいことを示しているに過ぎない。国債問題に関する財政破綻論にせよ次世代負担論にせよ、その論拠は国債発行に伴う「長期金利の上昇」および「インフレの高進」による実体経済への悪影響の発生にある。主流派経済学者の立脚する供給側の経済学では、このことは保証されている。何故なら経済は常に完全雇用状態(正確には自然失業率に対応する産出水準)にあり、それゆえ資金市場も逼迫していると仮定しているからである。そこに新規の資金需要が発生すれ
ば必ず金利は上昇する。しかし、不況により資金需要が低迷し、資金供給がだぶついている状況において新規国債を発行したところで長期金利は上昇しない。またデフレ下にある状況において国債で調達された資金による呼び水的な政府支出の増加は一般物価水準を押し上げるものではない。過去二十年の歴史はそれを物語っている。バブル期に6~7%あった長期金利は、国債発行が急増したにもかかわらず低下の一途をたどり、現在では1%割れも珍しくはなくなった。同時に、デフレが十数年も続いていることでもそれは明白である。
 現実経済の分析を行う場合、常に需給一致が保証された純粋理論ではなく、総需要不足による景気状況を考察できる論理に則するのが常識からして当然であろう。しかし、この当たり前のことが社会で理解されるまでには、まだ多少の時間はかかるかもしれない。

6.国債問題の解決策:仮に日銀が国債残高の全てを保有しているとしたら、国債問題
を議論する必要はなくなる!

 国債の機能と役割の重要性が認識されたとしても、一般国民に対して現在ある国債残高の解消策を提示しておく必要がある。「財政再建は焦眉の急であり、これ以上の国債を増やすことは財政破綻につながる」との財務省の宣伝やマスコミ報道によって国民の多くは将来に対する不安な気持ちを抱えている。それを一掃することが現在できる最大の景気対策だと思われるからである。しかし、ここでの議論は現在の国債残高の解消策について論ずるもので、今後の歳入歳出構造にまで論及するものではない。
 先ずもって認識すべきことは、財政破綻とは「借金が返せなくなること」ではなく、「(民間から)追加の借金が出来なくなること」である。通貨発行当局を有する政府が自国通貨建国債をどれほど発行しようと返済は必ずできるのである。政府の信認が揺らいだときにはじめて、誰も政府にカネを貸さなくなる状況に至る。政府および通貨に対する信認は、その国の長期金利の水準とインフレ率に反映されるから、それを注視していれば良い。それゆえ、長期金利が底這いを続け、十数年もデフレ状態の日本は財政破綻の危険性はほぼ皆無といってよい。
 財政規律という言葉も誤解を生んでいる。それは歳入と歳出を一致させるべきだとする財政均衡主義から発している概念である。しかし、その理念は個人の家計に当てはまるものであるとしても、国家の財政運営においては最悪の思想である。個人と国家とを同一視することの危険性がここにある。資本主義経済を景気変動の過程として捉えるならば、財政均衡主義は論理的に即座に破綻する。景気変動と共に歳入は変動するが、義務的経費が大半の歳出はほぼ一定値で推移する。財政均衡主義の立場からすると、不況期には歳入不足から増税をせねばならず、それは需要を減らしスパイラル的に経済を悪化させる。逆に好況期には歳入余剰から減税をせねばならないから、景気は過熱しインフレの高進をもたらすことになる。財政均衡主義より柔軟なる機動的な財政運営が勝る理由である。
 さて、国債の解消とは借金の返済、すなわち「償還」のことである。個人は借金を所得から返すしかないが、国家には三通りの返済方法がある。第一に「税収からの返済」であり、次に「借り換えによる返済」であり、最後に「日銀による国債引き受け」もしくは同じことだが「日銀による国債買い切り」である(償還のための借換債を日銀が引き受けるのも、償還する国債を日銀が買い切るのも同じである)。政府は経済状況を見ながら、どの方法を選ぶかを適宜選択できる。
 貨幣流通の図式からすると、「税収からの返済」は産業的流通内の活動貨幣を金融的流通内の不活動貨幣へと転換することである。いわば、所得化するカネを壺に入れて庭に埋めるようなものである。景気過熱時には良い方法かもしれないが、不況期には最悪な方法である。さらに借金返済のために増税を行うなどは愚の骨頂と言える。「借り換えによる返済」は、政府と民間による金融的流通内の貨幣循環を発生させるだけであるから、景気に対して中立的と言える。最後に「日銀引き受け」もしくは「日銀による国債買い切り」は、償還資金分の現金を新たに金融的流通内へと注入することを意味するから、民間の不活動貨幣量は増加する。増加分がどの程度、産業的流通へと回るかは景気状況に依存する。例えば、2002年から2006年にかけての量的緩和政策に際しては、そのほとんどが民間非金融部門へと渡らず、「マネーが回らない」状況が現出したことは記憶に新しい。
 さて、こうした認識に基づき、国債残高の解消策を考察する。これまでの国債論議では既述の悲観論が大半を占めてきたが、近年では楽観論も出てきたことは好ましい。楽観論の代表的見解は、「政府のバランスシートを考慮した純債務の観点からすれば現行の国債残高水準は諸外国と比較して問題はない」とするものである。確かに一理あると思われるが、その論理、いわば「まだ大丈夫だ」という説明だけでは財務省やマスコミに洗脳されてきた一般国民を説得することは難しいと思われる。
 われわれの議論の出発点となる基本認識は、現行の「国債残高の水準」を問題視するのではなく、「国債残高の保有者」を問題視することにある。端的にいって、現行の国債問題に関するさまざまな論議はこの視点を欠いている。「仮に700兆円に上る国債残高を全て日銀が保有しているとするなら、何の問題があろうか」を問うのである(現在は「日銀券ルール」があるために、日銀保有分は全体の一割弱である)。この場合、国債は「政府の借金」であり、同時に「日銀の資産」となる。いま政府と日銀を「広義の政府部門」とするなら、この状況においては政府部門内での不活動貨幣の貨幣循環が生ずるだけである。政府の利払い費は日銀へ一時的に入るが、そのほとんどは政府へ返納される。償還費は日銀による新規の借換債発行で何の問題もない。国債残高700兆円は変わらないとしても、それを以て財政破綻や次世代負担といった問題が生ずるだろうか。生ずるわけがない。日銀のバランスシートが拡大するだけで、民間経済には全く悪影響はないのである。
 もしも、日銀が全ての国債を保有した場合に、国債問題が解消するとするなら、そうした状況へ至る手段を講じれば、国債問題は最終的に解決するはずである。すなわち、「現行の民間経済に存する国債残高を日銀へと移し替える政策」である。もちろん、全ての国債を移し替える必要はない。国債は民間金融機関にとって重要な資産運用手段であるから、それをすべて取り上げることは愚策であろう。大雑把に言って、現行の国債残高のうち3割程度を20年程度かけて日銀へ移すのが良いのではないだろうか。もちろん、その数字は筆者の主観にすぎない。「国債残高を日銀へ移し替えること」が肝要なのである(具体的手段に関しては「動態的金融政策」にて提示した)。
 同時に、一般国民に対して、国債残高は問題なく解消することを丁寧に説明することによって国債問題に対する不安感が払拭されることになる。景気浮揚のための拡張的財政政策の足枷が取れれば、この動態的金融政策の実施と合わせたポリシー・ミックスによってデフレ不況を脱却できるのである。

7.補論:税制度変更プロセスにおける「為すべきこと」と「為さざるべきこと」
 本年6月26日に消費税増税法案が衆議院で可決された。本来、税制度変更というものは「誰から取るか(個人か法人か)」、「何処から取るか(所得か消費か資産か)」および「如何なる理念(目指すべき将来の社会像)で取るか」に関する議論を経てから行うものである。今般の消費税増税はそうしたプロセスを一切経ずして断行されようとしている。何ら理念に基づくことなく、個人の消費から取ることが決まってしまった。結果的に、今般の消費税増税で利益を得る者は誰か。消去法で考えれば明らかであろう。先ずは法人である。それも一般企業ばかりでなく宗教法人・医療法人・学校法人等の公益法人も増税を免れた。次に所得や資産からの増税を免れた高額所得者や資産家といった富裕層である。そして何よりも消費税増税を悲願として活動してきた財務省の幹部達であろう。
 「消費税増税は仕方がない」、「増税イコール消費税増税」といった世論誘導がマスコミを通じて図られてきた。消費税増税があたかも既定路線であるかのごとくに一般国民は刷り込まれてきた。他の増税の可能性について人々を思考停止状態へ誘ってきた。そうした消費税増税ムーブメントの背後にはそれによって利益を得ることになった社会的勢力が介在していると考えるのは穿ちすぎであろうか。さて、税制の変更、特にデフレ下における増税は国民経済に甚大なる悪影響をもたらす危険性が高い。本稿では「デフレ不況」脱却の方途を探ってきたが、最後に税制度との関連でそれを論じる。ここでは、先ず「増税が必要か否かの判定基準」を示し、次に「増税が必要である場合、景気に配慮した税制度のあり方」について説明する。
(1)増税前に為すべきこと:公正なる制度の運用
 「増税は仕方がないにしても、その前にやることがある。それは公務員の給与削減をはじめとする行政の無駄を排除することである」という見解はよく耳にするところであるが、現在の経済状況からすると適切ではない。貨幣循環の観点からすれば、政府支出の減少は直接的に産業的流通内の活動貨幣量を削減するということであるから景気をますます悪化させることになる。後に論じるように、政府支出を削減するくらいなら景気に配慮した増税策のほうが、経済にとっては遥かに優れている。
 増税前に為すべきことは、大抵の知識人であれば既に答えは分かっていよう。それは「現行制度の公正なる運用」である。ただし、公正という概念を定義するのは難しいので、ここでは「現行制度に従わない行為によって利益を得させないこと」といった消極的な意味で使用する。公正なる制度運用に関して二点指摘しておく。第一に、脱税の防止である。2001年5月の浜銀総合研究所のレポート『わが国の地下経済の規模を推計する』によれば、1999年時点の市場を通さない地下経済の規模は最低でも5兆円から最大で23兆円(当時のGDP比で1%から4.5%)におよぶと推計されている。現在、納税者番号および社会保険番号を統合した「国民番号制度」の創設が2015年の導入を目指して検討されている。遅きに失した感は否めないが、納付と給付の一元管
理を目指すこの方向性は、公正なる社会の構築のために最も肝要である。さらに、「預金残高」および「固定資産台帳」とリンクさせることによって個人の所得状況と資産状況の名寄せが同時にできることになれば脱税をほぼ阻止できると思われる。増税前に、先ずはここから手をつけるべきであろう。
 第二に、社会保険料の未払い問題の解消である。国民年金保険料の未納率が40%を超え、また社会保険庁の発表資料によると2009年時点で厚生年金保険料の滞納企業が全体の9%を超えている。こうした事実は税金と異なり社会保険料の徴収システムに問題があることを物語っているわけであるから、制度改変は必須であろう。これも遅きまきながら、2018年以降に国税庁による税金の徴収業務と、日本年金機構の保険料の徴収業務を一体的に行う「歳入庁」の創設が検討されているが、財務省の反対もあり紆余曲折が予想される。
 公正なる制度運用は、国民間の不公平感をなくし、国家への信頼性を高める根幹である。少なくとも不正行為による利益獲得機会を消滅させることは行政府並びに立法府の使命であろう。にもかかわらず、日本においては長期間にわたってこの問題は放置されてきた。消費増税実現のために蛮勇をふるう前に、公正なる社会制度構築のために政治生命をかけてほしいと願うのは筆者だけではあるまい。
(2)増税による景気刺激策
 増税は一般的に景気を悪化させる。しかし、デフレ不況の下、増税方法によっては景気を刺激する可能性もある。そのことを貨幣循環の図式の中で説明しよう。問題は課税ベースの選択である。経済内には活動貨幣量のプールと不活動貨幣量のプールがある。増税で得た資金は一般歳出として貨幣の産業的流通へ向かうと仮定する(万一、それが政府の借金返済に使われるとするならば、増税は必ず景気を悪化させることになる)。この場合、増税分が政府を経由して民間経済の所得増となるわけである。いわゆる所得の再分配がおこなわれる。課税対象として、消費税、所得税、資産税および法人税を考える。
 消費税増税は、増税前後に経済全体の実質的な総消費量が不変であるとするなら(供給側の経済学の仮定)、景気に対して中立的である。それは産業的流通内の活動貨幣量を増税分だけ減らし、次に増税分の政府支出増によって活動貨幣量を同額増やすからである。それは政府による資源配分の変更を意味するだけである。しかし、現実経済ではこうはならない。消費税率のアップは価格上昇と同じであるから、消費は減少する(どれほど減少するかは、正確には「消費需要の消費税率弾力性」に依存するであろう)。需要側の経済学からすれば、消費の減少は所得の減少であるから景気は悪化する。さらに将来に対する弱気予想が広がれば、一層の景気後退が生ずることになる。デフレ不況下で最も避けるべき増税策といえる。
 所得税増税の場合はどうか。所得は消費、貯蓄に分けられる。消費は活動貨幣量のプールに、そして貯蓄は不活動貨幣量のプールへ入る。経済内には貯蓄が出来ない低額所得者、平均的な貯蓄を有する中額所得者および巨額な貯蓄を有する高額所得者が存在する。所得税増税の対象を所得者全員とするならば、活動貨幣量のプールから増税分が減少し、次に同額の政府支出増によって補てんされる。この場合、活動貨幣量は不変であるが、貯蓄のない低額所得者は最も被害を受け、次に貯蓄の取り崩しを余儀なくされる中額所得者の生活水準は低下する。十分な貯蓄を有する高額所得者の損失は軽微であり、相対的に最も少ない負担で済む。
 次に所得税増税の対象を高額所得にする場合はどうか。例えば、三千万円超えの所得、五千万円超えの所得等に累進税率を適用する場合である。高額所得者の消費水準がどの程度かはわからないが、おそらく高率の累進税率が適用される以上の所得は貯蓄されているであろう。すなわち金融的流通内(不活動貨幣のプール)にある。高額所得に対する所得税増税は、不活動貨幣量を政府が活動貨幣へ変換することになるから国債発行と同様に景気刺激的となる可能性が強い。
 最後に、資産および法人税に対する増税である。金融資産に関しては、金融所得に対して分離課税がとられているが、それを本来の総合課税に一本化するといった増税策である。利子および配当所得の一部は再投資されるケース─すなわち金融的流通内に滞留するケース─があるから、増税は景気に対してプラスに働く可能性が強い。法人税に関しては、成長戦略の名の下に減税が繰り返されてきた。減税と景気低迷が重なり法人税収はバブル期に比べて半減している。他方、現在、企業の内部留保のうち現金及び預金残高は200兆円余りある。減税分は金融的流通内に滞留しているのである。厳しい内外の経済環境(円高および国内の不況)により法人税の増税は難しいが、すくなくともこれ以上の減税はすべきではない。これまでの経緯からすれば、それは内部留保にまわる可能性が強いからである。内部留保された200兆円のうち何割かは政府の税収となっていたはずのものなのである。
 以上、簡単に説明してきたように、増税に際して考慮すべきことは、景気への配慮である。増税はやり方によっては、不活動貨幣を活動貨幣へ転換させることで所得増をもたらす可能性がある。しかし、現在国会で論議されている消費税増税が実施されるなら、日本経済の長期的低迷は継続することになろう。日本を見舞う再度の「人災」である。


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