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【藤井聡】「応用哲学、改め、哲学」、ではどうでしょう?

藤井聡教授FBよりシェア

「これが応用哲学だ!」なるムックへの寄稿原稿
   『応用哲学、改め、哲学、ではどうでしょう?』
です。「小生の専門は何?」的なお話から、そもそも哲学はどうあるべきかをまとめたものですが、土木計画って何?......とお感じになったことのある方は、お暇な時にどうぞ......



「応用哲学、改め、哲学」、ではどうでしょう?


京都大学 藤井聡


 色んな現場の中で、色んな学問の役割を考える。
 私は、一般には「工学者」と紹介されることが多い。例えば、インターネットの百科辞典ウィキペディアでは、そうやって紹介されているようだ。
たしかに、所属は工学部で都市社会工学専攻なるところに属している。
しかし、どうも自分自身を「工学者」と定義することに違和感がある。
なぜなら筆者は、「工学」、すなわち、「基礎科学を工業生産に応用して生産力を向上させるための応用的科学技術」(広辞苑)については、恥ずかしながらほとんど「素人」だからだ。
 では、一体何をやっているのかと言えば、一番大きな仕事は「国土計画の研究」であり、小さな仕事は「都市計画の研究」「交通計画の研究」といったところである。つまり、国土や都市をどの様につくっていくかについて、あれこれと考えるのが私の仕事だ。だから、上記の工学の定義で言う様な「工業生産に応用」しているわけでは無い。

 国土や都市をつくるための研究とはどういうものかというと、はっきり言って、人間や社会に関わる事は、何でもかんでもやらないといけない。学問で言えば、経済学は当然のこと、社会学、民俗学、法律学、心理学等が必要になってくる。例えば、「新幹線をつくる」という一事だけを考えたとしても、それを通せばどんな経済的効果があるのかといった事や、それが社会や民俗にどんな意味があるのかとか、それをつくっていくための法律をどの様に整備、運用していけばいいのかとか、さらには、それをつくろうと思う人間の意志はどういうところから生まれるのかとか、実に様々なことを考えなければならない。さらには、「ナショナリズムとは何か」とか「近代とは何か」とか「風土とは何か」とか「共和主義とは何か」とか、はては「本来的時間性と現存在、大衆との関係は何か」みたいな、社会哲学や政治哲学の議論もまた、必要になってくる。そうじゃないと、国土や都市の計画のヴィジョンを策定することができなくなってしまうからだ。兎に角、そんなこんなで、いわゆる「人文社会科学」と呼ばれるいろいろなものを総動員しなければならなくなってしまうのである。

 さらに言うと、そんな学問を全て動員したところで、そこに新幹線ができあがる、というものではない。当たり前だが、建設会社も必要だし、行政の人も必要だし、政治家の働きも絶対必要だ。さらには、報道機関の人や、言論人、地域の自治会の人達の働きもどうしても求められる。
つまりは、新幹線をつくるにあたっては、あらゆる学問的取り組みと、あらゆる非学問的な取り組みが求められてくるのである。
 そして言うまでもないが、現場は、そんな新幹線の議論だけではない。
高速道路の議論やダムの議論があれば、路面電車の議論や電線の地中化の議論なんかもあったりする。もっと小さなスケールでは、駅前の路上駐車の議論であったり、ベンチの置き方についての議論なんかにも関わることがあるし、挙げ句には国際貿易の「TPP」の話なんかにもかり出されたりする。
 そんなのが私の仕事なのだが、そんな現場で仕事をしていると、その現場に何らかの意味で関わるあらゆる「学問的取り組み」を引き受けるような役割を担うこととなることが多い。もうこうなると、筆者がやっている学問的活動を一言で表現するような、専門領域は、存在してなどいない、ということになってしまう。

 とはいえ、世間では、大学の人間には専門がある、ということになってしまっているので、色々な場面で「専門」を「書かないといけない局面」がやってくる。そんな時がくれば、(なんだかトンネルの力学をやっているように思われるだろうなぁと思いながら)「土木工学」と書いたり、(信号の制御か何かやってるんだろうかと思われるだろうなぁと思いながら)「交通工学」と書いたり、(なんだか特定の経済学や行政学の一派か何かだと思わ
れるだろうなぁと思いながら)「公共政策論」と書いたり、(そんな専門分野なんてないだろう、と思われるだろうなぁと思いながら)「国土計画論・都市計画論」とか「土木計画学」と書いたりしている。はてはもう面倒だから、自分の所属する大学の専攻である「都市社会工学」なんていい加減に書くこともある。
 何とも面倒な話なのだが、まさか、「専門=学者」なんて書くわけにはいかないから、仕方ない。頼まれた仕事の性質によって、自分の専門の名称を適当に選んで、それを文字にするしかないわけである。
で、結局は、最も一般的に筆者を紹介しようとすると、工学部の人間だから「工学者」と紹介されてしまうわけである。

 とはいえ、文字にするのではなくて、日常会話の中で「専門は」と聞かれれば、「あぁ、わたしは、土木なんです」ということが多い。「土木工学です」というと「工学」という言葉が付くので少々違和感があるのだが、そ
の工学を取り除いた「土木」という言葉はしっくりとくるのである。
 そもそも「土木」というのは学問の名称ではない。「世のため人のため」に街や国、地域や村をつくって、守って、育んでいく仕事、それが「土木」だ。だから、自分がやっている仕事の内容を説明するのに一番しっくり来る言葉だし、しかも、「都市社会某なにがし」とか「土木計画学」とかよく分からない名前ではなく、誰もがよく知
っている言葉でもあるからだ。だから、ちょっとした雑談なんかでは、「僕は、土木なんですが、土木についてのいろんな人文社会科学をやってるんですよ」と言えるわけである。
 しかし、繰り返しとなるが、履歴書や書籍のプロフィールには、なんだか建設業者さんみたいになってしまうので、「専門=土木」とは書けない。中には、土木学、なんて事を書く先生もいるようだが、そんな言葉は無いんだから、恥ずかしくて筆者はそんな言葉を文字にする事はできない(と言いつつ、今回この文章を書くにあたって、始めてその文字を書いてみたが、やっぱり恥ずかしい)。だから結局、適当に自分の分野名を、TPOにあわせて選んで書いていくしかないのである。
「応用」という言葉は、なんとも非プラグマティックな響きを持っている。

 ところで、そんな仕事をやっている筆者であるが、色んな「専門」の学者さんたちと話をしていると、「藤井さん=応用の人」と言われることがしばしばである。
うーん────。
確かに、その専門の方からすると、筆者は、「応用の人」なんだろうと思うし、それを否定するつもりは一切ないのだが、実を言うと、そう言われる時に、なんだかヘンテコな違和感を感じてしまう時があるのも、偽らざる事実である。
 そもそも、「応用」というのは「原理や知識を実際的な事柄にあてはめて利用すること」(広辞苑)を意味している。で、この言葉は、よくよく考えてみれば、「原理や知識」が「実際的な事柄」とは別に、「独立に存在」している、という事を暗黙の前提にしてしまっている。
 しかし、「そんなことはない」───なんてことを、「哲学を専門」とされておられる読者の方々にいちいち説明するのは、何とも場違いな気がしてしまうが───というツッコミこそが、アメリカのパースが「プラグマティズムの格率」でもって、当時の「哲学者達」「知識人達」に入れようとしたものだったのではないかと思う。「原理や知識なるものは、実際的な事柄の中において始めて意味を帯びるものであって、実際的な事柄の外に、原理や知識なるものは無い」───これが、プラグマティズムの格率が言わんとしたことだ。
 もちろん、一旦そうやってプラグマティズムの格率を胆に据えた上で、原理や知識を措定し、その上で、それを「実際的な事柄にあてはめて利用する」という態度は、当然あり得るだろうと思うし、実際、筆者がやっていることの多くはそういう仕事だ。だから、藤井さん=応用の人」と言われても、それを否定するつもりはない。
 でも、問題は、そう言う台詞の中に、「プラグマティズムの格率を胆に据えた上で、原理や知識を措定し」という態度が滲まされていない時────である。そんな時に、筆者はついつい、何となくヘンテコな違和感を感じてしまうのである。つまり、「いや、あのぉ.... その原理や知識って、こういう現場の中でどうやって使えるか、って
いう話があるから、原理や知識ということになってるんだと思うんですけど───」と思ってしまうわけである。
 もちろん、百歩譲って、そういう違和感があっても、その「原理や知識」なるものが本当に役に立てばいいと言えばいいだろう。でも、あっさり言ってしまえば、「プラグマティズムの格率を胆に据えた上で、原理や知識を措定する」という態度がないままに持ち出された「原理や知識」なるものは、残念ながら現場で本当に役に立つなんてことは、原理的に、あり得ない。

 例えばナイフ。
 この道具はものを切るという現場の中で生まれたものであって、だから(当たり前だが)
モノを切るという現場でつかうものだ。もちろん、このナイフを別の目的に「応用」することはできる。例えば、書道の文鎮に「応用」したり、肩叩き器に「応用」したり。
 でもそれは、多くの場合、急場しのぎの代替物だ。ナイフは、文鎮としてつくられた文鎮よりは文鎮としての機能は劣るし、肩叩き器としてつくられた肩叩き器よりは肩叩き器としての機能は劣る。だから、やっぱり、ナイフは、モノを切るという現場に使うのが一番だ。
 でもだからといって、「じゃぁ、やっぱり、ナイフはモノを切るのに『応用』するのが一番だよねー」なんて、口にするのは、なんだかヘンテコリンな話だろう。だって、ナイフはナイフとして作られているんだから、ナイフをナイフとして使う時に、「ナイフをナイフに応用しました」なんて言う人は、関東で言うところのおバカさん、関西で言うところのアホ(の坂田さん)としか言いようがない。

 そもそも、その「専門の方」が提示される「原理や知識」がナイフだとするなら、「モノを切る」という目的のためにそのナイフを使うのなら、それは既に「応用」とは決して呼ぶはずはないんじゃないだろうか、と思うのである。
 もしも、あえて「応用」という言葉で使うのなら、本来はナイフとして使われたものを、今回は急場なので「文鎮」や「肩叩き器」として使う、という場合に限られるはずだ。
 だから、「原理や知識」を「正しく使う」のならば、我々は決して、「応用」という言葉を使うことはあり得ないのではないか────と思うのである。
 だから、もしも、筆者と何らかの「専門」の方が話をして、その「専門」の方が提示する「原理や知識」を筆者が正しく使っていれば、その専門の方は、「私の原理や知識を、応用してもらった」とは言わないのではないかと思う。それは、さながら、ナイフを作った職人が、「私のつくったナイフを応用してもらった」とは口にしないのと同じだ。

 でも、次のようなナイフ職人なら、ナイフをモノを切るのに使ってもらう人が現れた時、その人に対して、「あなたは、ナイフをモノを切ることに応用する人ですね」ということはあり得ると思う。
 それは、ナイフというものを、全然別のなにがしかのものだと見なし続けてきた職人達だ。

 例えば、「ナイフづくりコンクールなるものがあって、そこで優勝や入賞するためだけにナイフを作り続けている」という人達や、「エライ人に褒められるナイフを作りさえすれば、給料がもらえるから、その人に褒められるためのナイフを作り続けている」という人達だ。
 この人達にしてみれば、ナイフはもうモノを切るモノじゃない。「そういえば、モノを切るためにも使えるんだったよねぇ」とは口にすることもあるだろうが、彼等にとってみればナイフはもう、自分が「優勝」したり、「エライ人に褒められたり」するための「道具」になっていることだろう。
そして、そういう人達のナイフを、もし、他の誰かがモノを切るのに使ったとしたら、きっとその人達は、こういうに違いない。

 「ありがとう、僕のナイフをモノをきるのに『応用』してくれて」。
応用哲学、改め、哲学。
はて、「応用哲学」。
この言葉の「応用」という言葉は一体どういう意味なのだろう───。

 まさか、「ナイフづくりコンクールなるものがあって、そこで優勝するためだけにナイフを作り続けて」いたり、「エライ人に褒められるナイフを作りさえすれば、給料がもらえるから、その人に褒められるためのナイフを作り続けて」いたりするナイフ職人達の中の一部の人達が、自分たちのやっているあまりのアホさ加減、おバカさん加減に嫌気がさし、
良心の呵責に耐えかね、「これはモノを切るためのものなんだから、たまには、モノを切る
ためにも、このナイフを使ったり、使ってもらったりしようよ!」という運動なんかでは
ないと思いたい────。

 もしもそうで「ない」とするなら、名前を変えてはどうだろう。
「応用哲学、改め、哲学」で、その上で、真面目に、真剣に、哲学に取り組んだらどうだろう。
────はたまた私事で恐縮であるが、また、繰り返しとなってしまうが、筆者の専門
は(口語的に言うなら)「土木についてのいろんな学問」であって、土木というのは、「世のため人のために街や国、地域や村をつくって、守って、育んでいく仕事」である。
 つまり、平たくいって、筆者の仕事は、「世のため人のために、街や国、地域や村をつくって、守って、育んでいくという現場で学問を考える」というものである。さらに言えば「街や国、地域や村」には、人間活動のあらゆるものがはいってしまうのだから(そもそも、街や国、地域や村と独立に人は生きていけない)、結局は筆者の仕事は、「世のため人のためのあらゆる学問を考える」というものだ。

 もうここまで筆者の仕事を「意訳」して解釈しまえば、筆者の仕事は、ソクラテスやアリストテレスがやろうとしたことや、さらには、最近ではジェームズ、さらに言うとウィトゲンシュタインやハイデガーがやろうとしたこと、もっと言えば、バークやオルテガがやっていたことと、ほとんど差がないんじゃないかと思えてくる。
 「藤井さん、それはちょっと、意訳しすぎだろう」というツッコミが聞こえてきそうだ
が、ホントに良い村や町や都市、国土をつくろうとすると、そうでも思わなければ、つくれないのではないかとも思うのだ。

 いってみれば、真面目に、真剣に「土木」をやろうとすることは、真面目に、真剣に「哲学」をやろうとすることと、何も変わらないのではないかと思うのである。もし両者の間に何かの差があるとするなら、それは、それに携わる人々の真面目さ、真剣さが欠けているからに違いないのではないかと思う。
 だから、何をどうするにしても、専門がどうとか言う話はさておき、真面目に、真剣にやっていく他に、なすべき事なんて何も無いんだろうなぁ、と改めて思うわけである。

http://trans.kuciv.kyoto-u.ac.jp/tba/images/stories/PDF/Fujii/201110-201112/editorial/fujii_cap.pdf

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